蕪村の『新花摘』の挿絵周辺(その二)
蕪村の『新花摘』の潭北と若き日の蕪村の「野総」(「下野・上野」・「下總(茨城・千葉の一部)」)を中心とする「関東行脚」並びに「奥羽行脚」に関する記述は大変に示唆の含んだ興味の尽きないところである。それらの幾つかについて、ここに記述して置きたい。
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いささか故ありて(注・寛保二年六月師の早野巴人の死後を指す)、余(注・蕪村)は
江戸をしりぞきて、しもつふさゆふきの(注・下総国結城の)雁宕(注・砂岡雁宕)が
もとをあるじとして、日夜はいかいに遊び、邂逅にして柳居(注・佐久間柳居)がつく
波(注・筑波)まうでに逢いてここかしこに席(注・俳席)をかさね、或は潭北と上野(注・群馬県)に同行して処々にやどりをともにし、松島のうらづたひして好風におもて
をはらひ、外の浜(注・青森県の東岸で、謡曲「善知鳥(うとう)」の伝説で名高い)
の旅寝に合浦(注・津軽地方の合浦)の玉のかへるさを忘れ、とざまかうざまとして、
既三とせあまりの星霜をふりぬ。
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ここのところの、「いささか故ありて」というのは、寛保二年(一七四二)六月六日に、夜半亭一世宋阿(早野巴人)が亡くなり、その遺稿を「一羽烏」と題して編もうとしたが断念して、江戸を去って下総結城の兄弟子に当たる砂岡雁宕を頼って、以後、野總奥羽の間を歴行する十年余の記述なのである。
そして、「日夜はいかいに遊び、邂逅にして柳居(注・佐久間柳居)がつく波(注・筑波)まうでに逢いてここかしこに席(注・俳席)をかさね」とは、正確には、宋阿が在世中の元文五年(寛保元年・一七四一)の冬から春にかけての頃で、「つくば山の山本に春を待つ」と前書きを付与して、蕪村の号の前の号の「宰鳥」の号での、「行く年や芥流るゝさくら川」の一句を、宋阿最後の歳旦帖(『辛酉歳旦 夜半亭』)に収載しているのである。
このことから、元文五年に、当時、二十五歳の蕪村は、当時、四十六歳の、享保俳諧の一翼を担った中心的な俳人の一人の、佐久間柳居と、筑波詣で邂逅して、俳席を一緒にしたというのである。これらに関しての柳居側からの直接的な資料は遺されていないが、間接的な資料として、柳居の門人・秋瓜に連なる満事庵買風編『茶の花見』(志田文庫本『筑波詣の紀行』)で、柳居の年譜にも、柳居の蕪村詣と「蕪村らとの交流」が記述されている。
ここで、蕪村の『新花摘』に関連するところの、柳居、潭北、巴人、そして、蕪村の年譜を、少し遡って併記すると次のとおりである。
享保十一年(一七二六) 柳居、三十二歳。師と頼む沾徳が他界する。潭北、五十歳。『民家分量記』(「百姓分量記」)刊行。巴人(「延宝四年誕生説」)は、五十一歳。翌十二年に江戸を出立して、京都に移住する。蕪村、十一歳。
享保十六年(一七三一) 柳居、三十七歳。『五色墨』刊行。柳居の号は長水。潭北、五十五歳。下総を中心として、俳諧師と共に庶民教化指導者として各地を巡遊。巴人は京都にあって、この頃は、郢月泉(えいげつせん)の号か。蕪村、十六歳。
享保十八年(一七三三) 柳居、三十九歳。石霜庵(祇空)門人編『四時観』の跋文を記す。この年の四月二十三日、敬雨(祇空)没。柳居は「長水」から「麦阿」に改号。潭北、五十七歳。この前年に、沾涼編『綾錦』で江戸俳壇の代表的な俳人の一人として登場。『野総茗話』刊行。巴人、五十八歳。『一夜松』刊行。京都俳壇の代表的な俳人の地位を確立。
蕪村、十八歳。
元文二年(一七三七) 柳居、四十三歳。『世中百韻』刊行(中川乙由等の伊勢派俳諧を表明)。巴人、六十二歳。春、京都を出立し、日本橋本石町に夜半亭を結ぶ。蕪村入門。蕪村、二十二歳。
元文四年(一七三九) 柳居、四十五歳。師と頼む中川乙由他界。巴人、六十四歳。其角・嵐雪の三十三回忌追善集『俳諧桃桜』刊行。潭北、六十三歳。『俳諧桃桜』にその名が見られる。蕪村、二十二歳。『俳諧桃桜』に「宰鳥」の名で登場。
元文五年(一七四〇) 柳居、四十六歳。二月から七月にかけて伊勢・吉野・和歌の浦・京都・尾張に出向く。冬、筑波詣で、蕪村らと交流。巴人、六十五歳(病没する二年前)。
潭北、六十四歳。蕪村、二十五歳。
寛保元年(一七四一) 柳居、四十七歳。七月剃髪。九月以降俳諧に専念。巴人、六十六歳。最後の歳旦帖『辛酉歳旦』刊行。蕪村の筑波詣の句が収載される(号は宰鳥)。潭北、六十五歳。蕪村、二十六歳。
寛保二年(一七四二) 柳居、四十八歳。三月、芭蕉の足跡を慕い奥羽行脚。四月、鶴岡・羽黒山、松島・塩釜巡遊。巴人、六十七歳。六月六日他界。潭北、六十六歳。蕪村、二十七歳。巴人没後、蕪村は十年余北関東を流寓する。蕪村の奥羽行脚は、寛保二年秋・冬から約一年間(推定)。
寛保三年(一七四三) 柳居、四十九歳。十一月、芭蕉五十回忌集『同光忌』刊行。潭北、六十七歳。蕪村、二十八歳。宋屋編『西の奥』(宋阿追善集)刊行。蕪村一句収載(号は宰鳥)。
寛保四年(延享元年・一七四四) 柳居、五十歳。潭北、六十八歳。七月三日他界。蕪村、二十九歳。この春、宇都宮にあって『寛保四年宇都宮歳旦帖』を刊行(初めて「蕪村」の号を用いた)。潭北の「梅が香や隣の娘嫁せし後」の句が収載されているが、潭北の遺句ともいえるものでもあろう。
延享五年(寛延元年・一七四八) 柳居、五十四歳。五月晦日他界。蕪村、三十三歳。翌宝暦元年(一七五一)八月、木曽路を経て京に再帰する。
これらの年譜を見ていくと、御家人出身の『五色墨』運動(蕉風俳諧復興運動)の中心的な俳人であった柳居が、筑波詣の旅で偶然出会った乞食僧風情の蕪村と俳席を重ねるということは、蕪村は随行者であって、その蕪村が随行している主たる俳人は、それは、早野巴人であり、常盤潭北ということになろう。
さらに、巴人は、享保十二年(一七二七)から元文二年(一七三七)にかけて、十年余、江戸を離れて関西の大阪・京都に移住しており、こと、旗本出身の佐久間柳居との関連では、巴人よりも、潭北の方が柳居には近い俳人であったといえるであろう。事実、柳居が師事した、水間沾徳は、潭北の『汐越』の「序」を起草した江戸俳壇の主要な俳人で、また、柳居らの精神的支柱となった俳人・敬雨(稲津祇空)も、蕪村が誕生した享保元年(一七一六)に潭北と一緒に奥羽行脚をしており、こういうことからしても、潭北と柳居との接点というのは、巴人と柳居との接点よりも濃厚のように思われるのである。とすれば、蕪村と柳居の「筑波詣での邂逅」は、潭北に随行しての時という理解も可能であろう。
いずれにしろ、その後に続く、「松島のうらづたひして好風におもてをはらひ、外の浜(注・青森県の東岸で、謡曲「善知鳥(うとう)」の伝説で名高い)の旅寝に合浦(注・津軽地方の合浦)の玉のかへるさを忘れ、とざまかうざまとして、既三とせあまりの星霜をふりぬ」という、これらの蕪村の奥羽行脚は、蕪村の単独行ということになろう。
そして、実は、同じ寛保二年(一七四二)に、柳居も、芭蕉の足跡を慕い奥羽行脚を決行しているのである。しかし、蕪村がたった独りの行脚であったのに対して、柳居の方は、門人・秋瓜ら二人と従者一人の四人連れで、さらに、柳居の門人には庄内藩士の名も見ることができ、蕪村の乞食行脚的なそれとは雲泥の差であったであろう。
それと同時に、柳居、そして、蕪村の奥羽行脚に関連して、いわゆる、柳居、そして、蕪村の師の巴人や潭北に連なる、沾徳や其角の江戸座俳諧のネットワークというものは、濃淡の差はあれ、奥羽地方の主要な各地に張り巡らされていたという理解も可能であろう。
これらに関して、蕪村の『新花摘』には、直接の記述ではないけれども、岩代国(福島県須賀川市)の其角門の藤井晋流(須賀川の本陣・藤井半左衛門の俳号)と同じく其角門の、秋田藩(秋田県)の重臣(知行一万石)・梅津半右衛門忠明(俳号・其雫)の名が登場してくるのは興味が惹かれるところである。
さらに、享保八年(一七二三)に津軽藩(青森県)の細工師として三十両五人扶持でかかえられることとなった、芭蕉・其角・嵐雪・沾徳(巴人・潭北・柳居にも連なる)と親交のあった小川破笠(笠翁)なども、それらのネットワークとは無縁ではなかろう。
ここで、これらの、其角・嵐雪・沾徳門に連なる面々について、ネットの世界(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』・「朝日日本歴史人物事典」など)で、どのように紹介されているかを見てみたい。
与謝 蕪村(よさ ぶそん、よさの ぶそん、享保元年(1716年)- - 天明3年12月25日(1784年1月17日))は、江戸時代中期の日本の俳人、画家。本姓は谷口、あるいは谷。「蕪村」は号で、名は信章通称寅。「蕪村」とは中国の詩人陶淵明の詩「帰去来辞」に由来すると考えられている。俳号は蕪村以外では「宰鳥」、「夜半亭(二世)」があり、画号は「春星」、「謝寅(しゃいん)」など複数の名前を持っている。(「経歴」など略)
佐久間柳居 (さくま‐りゅうきょ) 1686‐1748 江戸時代中期の俳人。
貞享(じょうきょう)3年生まれ。幕臣。貴志沾洲(せんしゅう)の門にはいるが、江戸座の俳風にあきたらず、中川宗瑞(そうずい)らと「五色墨」をだす。のち中川乙由(おつゆう)の門下となり、蕉風(しょうふう)の復古をこころざし、松尾芭蕉(ばしょう)の五十回忌に俳諧(はいかい)集「同光忌」を撰した。延享5年5月30日死去。63歳。名は長利。通称は三郎左衛門。別号に松籟庵、長水、眠柳など。
砂岡雁宕 いさおか‐がんとう
?‐1773
江戸時代中期の俳人。
内田沾山(せんざん)にまなぶ。のち早野巴人(はじん)の高弟となり、同門の与謝蕪村(よさ‐ぶそん)と親交をむすんだ。江戸俳壇で活躍し、「蓼(たで)すり古義」「俳諧(はいかい)一字般若(はんにゃ)」をあらわして大島蓼太(りょうた)と論争した。安永2年7月30日死去。下総(しもうさ)結城(ゆうき)(茨城県)出身。通称は四良左衛門。別号に茅風庵(ちふうあん)、伐木斎。姓は伊佐岡ともかく。
早野巴人(はやの はじん、延宝4年(1676年)- - 寛保2年6月6日(1742年7月7日)) 江戸時代の俳人。与謝蕪村の師。のち夜半亭宋阿(やはんてい そうあ)と改める。
(略歴)下野国那須郡烏山(現・栃木県那須烏山市)に生まれる。延宝5年(1677年)の生まれの説もある。幼くして(9歳の頃)江戸に出て俳諧の道を志す。元禄2年(1689年)松尾芭蕉の「奥の細道」の足跡を辿って旅をする。再び江戸に戻り、宝井其角、服部嵐雪の門人となり俳諧を学ぶ。享保12年(1727年)京都に移る。 元文2年(1737年)砂岡雁宕の誘いにより江戸へ戻り、夜半亭を日本橋本石町に構える。この時に号を宋阿とする。この頃、江戸に出てきた与謝蕪村が門人となる。寛保2年6月6日夜半亭にて病没。享年67。辞世の句は「こしらへて有りとは知らず西の奧」である。
常盤潭北(ときわ‐たんぽく) 1677‐1744 江戸時代中期の俳人、心学者。
延宝5年生まれ。榎本其角(きかく)の門人。与謝蕪村(よさ‐ぶそん)ともしたしく、俳書に「汐越(しおこし)」など。医業に従事していたが、庶民教育を重視し、関東一円を講話してまわり、「民家分量記」などを出版した。延享元年7月3日死去。68歳。下野(しもつけ)(栃木県)出身。本姓は渡辺。名は貞尚。字(あざな)は尭民。別号に百華荘。
【格言など】我を誉(ほむ)る者は末の仇、我を譏(そし)る者は当座の師(「民家分量記」)
稲津祇空(いなづ・ぎくう)
生年:寛文3(1663)
没年:享保18.4.23(1733.6.5)
江戸前・中期の俳人。通称は伊丹屋五郎右衛門。別号は青流,敬雨,竹尊者,玉笥山人,有無庵,石霜庵など。大坂の人。俳諧は岡西惟中,椎本才麿に師事。松木淡々の手引きで東下し,やがて榎本其角門に入る。其角他界の折にはその追善集『類柑子』の編集にかかわり,にわかに活躍を示し出す。正徳4(1714)年には箱根早雲寺の飯尾宗祇墓前で剃髪し,祇空と改号。一時大坂に帰郷したこともあったが,享保初期まではおおむね江戸に在住。のち京都紫野大徳寺に移り,夢に敬雨の2字を感得して改号。諸所へ引杖後,享保16(1731)年に箱根湯本に石霜庵を結ぶ。隠者然とした高潔な人柄を慕う者多く,その俳風は「法師風」と称された。<参考文献>倉橋連之祐「祇空年譜」(『島田筑波集』上),潁原退蔵「祇空」(『潁原退蔵著作集』5巻),桜井武次郎「祇空と淡々」(日本文学研究資料叢書『蕪村・一茶』) (楠元六男)
水間沾徳(みずませんとく)(~享保11年(1726)5月30日)
内藤露沾の弟子。江戸の人。『別座舗』の連衆の一人。後に享保期の江戸の中心的俳人となる。
内藤露沾(ないとう・ろせん)
生年:明暦1.5.1(1655.6.5)
没年:享保18.9.14(1733.10.21)
江戸前・中期の俳人。磐城平藩(福島県いわき市)藩主,内藤風虎の次男。幼名は五郎四郎義英,のち政栄。別号に傍池亭,遊園堂。兄他界のため家督を継ぐ立場にたつが,お家騒動にまきこまれて,天和2(1682)年病気を理由に退身。早くから俳諧に親しみ風虎サロンの若亭主として活躍するが,退身後は江戸蕉門とも交流した。麻布六本木の自邸で月次興行を催すなど,風流三昧の生活を送る。福田露言,水間沾徳,菊岡沾涼らはその門人(『綾錦』)。<参考文献>岡田利兵衛「内藤風虎,内藤露沾」(明治書院『俳句講座』2巻) (楠元六男)
小川破笠(おがわ・はりつ)
生年:寛文3(1663)
没年:延享4.6.3(1747.7.10)
江戸中期の漆芸家。出身は伊勢(三重県),あるいは江戸ともいうが明らかではない。笠翁,卯観子,夢中庵などと号し,英一蝶や宝井其角などとの交わりを通じて,絵画や俳諧の道にも長じた。遺された作品からみる限り,破笠が漆芸の道に入ったのは享保(1716~36)のころ,50歳を過ぎてからのことで,幼少のうちから修業を積むケースが多い漆工のなかでは,やはり異色の存在といえよう。江戸後期の装飾技術について述べた『装剣奇賞』に「観子破笠 江戸人 上手なり。此人の蒔絵には必ず楽焼又は堆朱又は染角などをあしらひ仕立る事,甚だ風流なる物なり。是又一名家といふべし」と記されているように,漆芸家としての破笠の特色は,従来の常識にない装飾材料を大胆に用いる点にあった。代表作のひとつ「貝尽文料紙硯箱」(サントリー美術館蔵)では貝殻や玉石が,そして「印籠文色紙箱」(東京国立博物館蔵)では堆朱の根付や瑪瑙の緒締が画面に嵌装されている。破笠の作品は,伝統的な漆芸の流れからすればいかにも奇を衒ったようにみえるが,同時期の絵画の傾向などと対比してみれば,決して奇というにはあたらない。享保8(1723)年に破笠が弘前藩5代藩主の津軽信寿に招かれて寵遇を受け,諸方からの作品の注文が引きも切らない状態になったのも,また破笠の作品が一時の徒花に終わらず,今日もなお,国内はもとより西欧諸国で大いにもてはやされているのも,その作風が世間一般に通じる普遍性を持っていることの証しといえよう。また,職人として無名のまま生涯を終える漆工が多いなかで,「夢中庵破笠」「卯観子笠翁」などの銘を目立つところに書き込んだ破笠は近世の漆芸界に初めて強烈な作家意識を持ちこんだ人物としても記憶されなくてはならない。<参考文献>風俗絵巻図書刊会会編『蒔絵師伝・塗師伝』,京都国立博物館編『笠翁細工』 (小松大秀)
宝井 其角(たからい きかく、 寛文元年7月17日(1661年8月11日)- - 宝永4年2月30日〈一説には2月29日〉(1707年4月2日))は、江戸時代前期の俳諧師。
本名は竹下侃憲(たけした ただのり)。別号は螺舎(らしゃ)、狂雷堂(きょうらいどう)、晋子(しんし)、宝普斎(ほうしんさい)など。(「経歴」など略)
服部 嵐雪(はっとり らんせつ、承応3年(1654年) - 宝永4年10月13日(1707年11月6日))は、江戸時代前期の俳諧師。幼名は久馬之助、通称は孫之丞、彦兵衛など。別号は嵐亭治助、雪中庵、不白軒、寒蓼斎、玄峯堂など。江戸湯島生まれ。松尾芭蕉の高弟。雪門の祖。(「経歴」など略)