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蕪村の時代

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蕪村周辺探索エムエルなどのトッピクス的記事

(その三) 潭北の名が見られる撰集と『汐越』

 潭北の作品が収載されている撰集などは「中田・前掲書」によると次のとおりである。

宝永四年(一七〇七) 三十一歳 沾洲ら編『類柑子』
享保元年(一七一六) 四十歳  潭北編『汐越』
同 二年(一七一七) 四十一歳 祇空編『烏絲欄』
同 七年(一七二二) 四十六歳 潭北編『今の月日』(別称『後の月日』)
同十七年(一七三二) 五十六歳 沾涼編『綾錦』
                晋我編『享保十七年歳旦帖』
同十九年(一七三四) 五十八歳 淡々編『紀行誹談二十哥仙』
同二十年(一七三五) 五十九歳 貞佐編『梨園』
同二十一年(一七三六) 六十歳 沾涼著『烏山彦』
元文二年(一七三七) 六十一歳 重雪編『誹諧明星台』
元文四年(一七三九) 六十三歳 宋阿(巴人)編『誹諧桃桜』
寛保四年(一七四四) 六十八歳 蕪村編『(宇都宮)歳旦帖』

 潭北が四十歳の時に刊行した『汐越』は、巴人の盟友ともいうべき稲津祇空と共に奥羽地方を遍歴したものをまとめた紀行・俳諧撰集で、その序は、其角・嵐雪亡き後の、江戸座の最右翼の俳人の水間沾徳が草している。祇空の方も、『汐越』刊行の翌年(享保二年)に、この奥羽行脚について『烏絲欄』を著作し刊行している。 
 この『汐越』と『烏絲欄』に記述されている旅行の概略は次のとおりである。
 四月三日に祇空は江戸を出立し、結城の砂岡我尚宅で烏山の潭北と落ち合う。祇空・潭北・我尚の三人は、四月十一日に下野の室の八嶋、そして、壬生を経て鹿沼に滞在する。十三日には大谷観音を拝して、十四日に、今市を経て日光に到着する。翌十五日に東照宮に参詣し、十六日は華厳の滝を仰いでから中禅寺湖まで足を伸ばす。十七日は東照宮祭礼行列を見物し、十八日には宇都宮に出て、ここで、我尚と別れて、二十六日に、潭北の故郷の烏山に入り、黒羽の那須神社・玉藻の前古墳・犬追物の跡など、芭蕉の『おくのほそ道』の足跡を辿り、二十九日に遊行柳を経て殺生石を見る。この下野巡歴の後、白河・福島・仙台・松島を経て平泉に至り、尾花沢・象潟・羽黒山・山形・平を巡って、結城に戻り、結城で潭北と別れる。そして、祇空は九月十三日に江戸に帰っている。
 なお、潭北が没して二十年ほど後の宝暦十三年(一七六三)に刊行された『俳諧古選』(三宅嘯山編)の「巻之五」に、潭北の母の句が収載されており、興味が引かれるところである(中田・前掲書)。

   潭北が奥より帰りしを喜びて、同行祇空子に
   申し贈る
○ 古郷の子をかけて見よわれもこう       潭北母

 これらのことから、享保元年(一七一六)の、潭北が四十歳の頃は、潭北は下野の烏山に在住していて、母も健在であったことが了知される。そして、この祇空との奥羽行脚を一つの契機として、潭北は本格的な俳諧師の道へと大きく舵を切ったことがうかがえるのである。
# by yahantei | 2009-11-22 09:32 | 巴人と潭北
(その二)  巴人と潭北との俳諧史上のスタート

 巴人と潭北とは、下記の年譜(ネット上の紹介記事)のとおり、同郷(下野国那須郡烏山(現・栃木県那須烏山市))で、巴人が潭北よりも一歳年長と、この二人は幼馴染の親しい関係にあり、その親しい関係は生涯にわたって終始変わらなかったと言えるであろう。
 巴人が江戸へ出たのは、貞享元年(一六八四)の九歳の頃で、その前半生(五十歳前)は、その江戸を本拠地としていたということで、下野の人というよりも江戸の人と言った方がより正確なのかも知れない。それに比して、潭北は、生まれ故郷の下野の烏山を生活の本拠地として、言わば地方の俳人ということで、江戸の東都の俳人ともいうべき巴人とは好対照をなしているとも言えるであろう。
 しかし、東都の俳人ともいうべき巴人が、生まれ故郷の下野の烏山と全くの没交渉であったかというと、そうではなく、元禄十五年(一七〇二)、巴人が二十七歳の頃に、烏山滝田天満宮に「烏山八景」の句を奉納するなど、その繋がりは濃いものがあったということも事実であろう。
 これらのことを、巴人と潭北との二人の関係で見ていくと、潭北が俳諧の道に入ったのは、江戸で俳諧師としての道を歩み始めた巴人その人の影響によると見た方が素直なのかも知れない。
潭北は、当初から俳諧師の道を選んだ巴人と違って、医師の道を選び、おそらく、江戸で医術の修業し、その修業の傍ら、同郷の幼馴染の巴人の手ほどきを受けて、俳諧の道にも手を出していったと推測されるのである。
何時頃、潭北が俳諧の道に手を染めたのかは明らかではないが、潭北が俳諧史上に登場するのは、宝永四年(一七〇七)の『類柑子』(沾洲ら編)においてである。

○ 臼なれど香こそ長者の大桜  カラス山  潭北

この宝永四年は、潭北が三十一歳の時で、この時は、「カラス山 潭北」とあり、潭北の生活の本拠地は、下野の烏山ということになろう。
『類柑子』は、其角が公刊を予定していて、未定稿のまま病没してしまい、その遺稿を貴志沾洲らが整理・追補して刊行した、俳文・俳諧撰集である。全三巻中の下巻が追悼集で、そこに収載されている。このことから、潭北は其角門で、三十一歳の頃は、烏山で医業の傍ら俳諧師としても名をとどめていたのであろう。
一方、巴人の方は、元禄十四年(一七〇一)刊行の『杜撰集』(嵐雪著、百里・桃花編)の次の竹雨の号の作品が最も早い頃のものと推測されている(中田亮著『下野俳諧史』、以下、中田・前掲書)。

○ 巣の中を立得ぬ鳥や花の山   竹雨(巴人の初号)

この元禄十四年は、巴人が二十六歳の時で、この頃から、江戸で、芭蕉門の両雄の其角・嵐雪門の俳諧師としてその名をとどめていたということであろう(中田・前掲書によると「元禄四年〈一六九一〉立羽不角撰『若みどり』に竹雨の号で入集、巴人の句の初見か」とある)。
これのことから、「潭北は巴人の一年後輩として同じ烏山に出生し、また俳諧も同じ其角門の宗匠として活躍しているが、俳人としての出発は巴人よりも十年余りおくれたようである」(中田・前掲書)とされている。
いずれにしろ、俳諧の道においては、巴人が潭北の先輩格で、潭北は巴人を介してこの道に入っていったと言っても過言ではなかろう。

http://yahantei.exblog.jp/    (その五)

早野巴人(はやの/ はじん)延宝四年(一六七六年)~ 寛保二年(一七四二)六月六日。
与謝蕪村の師。のち夜半亭宋阿(やはんていそうあ)と改める。下野国那須郡烏山(現・栃木県那須烏山市)に生まれる。延宝五年(一六七七)の生まれの説もある。幼くして(九歳の頃)江戸に出て俳諧の道を志し、宝井其角、服部嵐雪の門人となり俳諧を学ぶ。享保十二年(一七二七)京都に移る。 元文二年(一七三七)砂岡雁宕の誘いにより江戸へ戻り、夜半亭を日本橋本石町に構える。この時に号を宋阿とする。この頃、江戸に出てきた与謝蕪村が門人となる。寛保二年六月六日夜半亭にて病没。享年六十七歳。辞世の句は「こしらへて有りとは知らず西の奧」である。

常盤潭北(ときわ/たんぽく)延宝五年( 一六七七)~延享元年(一七四四)。榎本其角(きかく)の門人。下野国那須郡烏山(現・栃木県那須烏山市)に生まれる。与謝蕪村(よさぶそん)とも親しく、俳書に『汐越(しおこし)』『今の月日』(別称『後の月日』)など。医業に従事していたが、庶民教育を重視し、関東一円を講話してまわり、『民家分量記』(別称『百姓分量記』)などを出版した。延享元年七月三日死去。六十八歳。本姓は渡辺。名は貞尚。字(あざな)は尭民。別号に百華荘など。


# by yahantei | 2009-11-11 07:15 | 巴人と潭北

(その一) 蕪村の『新花摘』上の潭北

蕪村の師の早野巴人(夜半亭宋阿)については、夙に知られているところである。それに比して、巴人亡き後、その巴人の代替わりをした、常盤潭北については、それほど知られていないというのが実情であろう。この潭北については、蕪村の『新花摘』に次のとおり記述されている。

http://yahantei.exblog.jp/   (その二)

・・・(前段)
いささか故ありて(注・寛保二年六月師の早野巴人の死後を指す)、余(注・蕪村)は
江戸をしりぞきて、しもつふさゆふきの(注・下総国結城の)雁宕(注・砂岡雁宕)が
もとをあるじとして、日夜はいかいに遊び、邂逅にして柳居(注・佐久間柳居)がつく
波(注・筑波)まうでに逢いてここかしこに席(注・俳席)をかさね、或は潭北と上野(注・群馬県)に同行して処々にやどりをともにし、松島のうらづたひして好風におもて
をはらひ、外の浜(注・青森県の東岸で、謡曲「善知鳥(うとう)」の伝説で名高い)
の旅寝に合浦(注・津軽地方の合浦)の玉のかへるさを忘れ、とざまかうざまとして、
既三とせあまりの星霜をふりぬ。
・・・(中断)
常盤潭北が所持したる高麗の茶碗は、義士大高源吾が秘蔵したるものにて、すなはち源
吾よりつたへて又余にゆづりたり。
・・・(後段)
そのゝちほどへて、結城の雁宕がもとにて潭北にかたりければ、潭北はらあしく(注・気短に)余を罵て曰、「やよ(注・やあ)、さばかりの奇物(注・珍品)うちすて置たるむくつけ(注・無風流)法師よ、其物我レ得てん、人やある(注・誰かいないか)、ただゆけ」と須賀川(注・福島県須賀川市)の晋流(注・須賀川の本陣・藤井半左衛門の俳号。其角門)がもとに告やりたり。
・・・

 この後段の、「はらあしく(注・気短に)」、「むくつけ(注・無風流)法師よ」と、蕪村を罵ったということで、どちらかというと、蕪村にとっての潭北は、師というよりも、師の巴人の親友の、小うるさい頑固爺さんというような印象すら受けるのである。
 しかし、前段の、蕪村の「奥の細道」行脚などは、宝永三年(一七〇六)に祇空と奥羽行脚を決行した潭北の全面的な支援とそのネットワークによるものとも解せられて、また、中段の「義士大高源吾」の秘蔵の「高麗の茶碗」を蕪村に譲るなど、二人の関係というのは、亡き巴人の代替わりのような師弟の関係にあり、当時の潭北の名声などを考えると、巴人以上に、若き日の蕪村に大きな影響を与えた、蕪村にとっては忘れ得ざる恩人であったとの印象をも抱くのである。
# by yahantei | 2009-11-09 13:41 | 巴人と潭北
蕪村の母(その一)

 其角の亡母追善の意図で編まれた『華摘』に倣い、安永六年(一七七七)四月から、蕪村は『新花摘』と題して句作を始める。この句作は百三十七句迄で、五月には中止してしまった。その『新花摘』の巻頭の六句は次のとおりである。

一 灌仏やもとより腹はかりのやど

二 卯月八日死ンで生るゝ子は仏

三 更衣身にしら露のはじめ哉

四 ころもがえ母なん藤原氏也けり

五 ほとゝぎす歌よむ遊女聞ゆなる

六 耳うとき父入道よほとゝぎす

これらの「句意」などは次のとおりである(『与謝蕪村集』清水孝之校注。以下『清水・前掲書』)。

一 釈尊でさへ人間の女の腹を仮の宿として誕生され、その灌仏会の花御堂が仮の宿であるように、もともとこの人生は一時の仮の宿に過ぎない。其角の『花摘』の巻頭の句は、「灌仏や墓にむかへる独言(ひとりごと)」。

二 四月八日釈尊降誕の当日、死児となって生まれた子は、俗世の悪も穢れも知らぬから、そのまま真の仏であることよ。

三 四月一日の衣更に身も心も軽くなったが、思えば露置きそめる頃であった。人生は予測できぬが、一歩一歩無常身へ近づくことだけは確かだ。 

四 伊勢物語(十段)の「父はなほびとにて、母なむ藤原なりける」を踏まえる。

五 母系貴種でも父が賤しいため落ちぶれた遊女。近頃その遊女の詠んだ時鳥の和歌が評判になっているとか。

六 耳の遠い老父入道にいくら教えても時鳥を聞き得ない老残の哀れさ。

 この六句について、『芭蕉と蕪村(尾形仂著)』所収「蕪村十二か月」で、次のように鑑賞している。

[『新花摘』冒頭の六句を改めて見直してみるとき、その配列は蕪村の母との関係について何かを暗示していはしないだろうか。肉親の話題や出生の経緯について平生口を緘(かん)して語るところのない蕪村が、わずか六句の中に、懐胎・死産・生命・母・父のイメージを畳みこんでいるのは普通ではない。(略) 蕪村の母は、腹は借り物といわれるような日蔭の存在で、初夏のころ、死産をして亡くなったのではあるまいか。そのことが、ちょうど其角が「身にとりて衣がへうき卯月哉」と嘆じたと同じように、この季節が幼い蕪村の心に人の世の無常を深く刻みこむ初めとなったのではなかろうか。(中略) 蕪村の母は、あてなるものへのあこがれを失わぬ優雅な心性の持ち主だったのではあるまいか。更衣のおりに取り出されたい衣類、あるいはそれを納めた調度の紋所が自分を生んだ母の心性を家系とのつながりにおおいてなつかしく想起させるのである。(中略)老齢の父の耳は、その母の霊魂の声を聞きつけることができない。その父の老齢をあわれむ心情と、母の霊魂の声を聞きとることのできない、いや、その歌よみの母の、あてなるものへのあこがれを持ちつづけた優雅な心性を理解することのできない「なほびと」としての心性をうとむ心情とが、複雑にからみあっている。蕪村が郷里を捨て、終生郷里へ帰ることのなかった理由も、またその辺にあったかも知れない。]

さらに、『清水・前掲書』では、一番最後の次の句で、下記のとおり、「生母は丹後与謝村から摂津毛馬村へ植え女(め)として出稼ぎにきた旅早乙女であったらしい」とまで踏み込んで鑑賞している。

一三七 早乙女やつげのをぐしをさゝで来し

[『伊勢物語』八十七段の古歌「芦の屋の灘の塩焼きいとまなみ黄楊の小櫛もささず来にけり」を踏み、化粧するひまもない早乙女の忙しさをいう。サ行音による整調及び濁音の配置が軽快なリズム感を出す。直前の田植男、田草取一家から田植女へと逆行するのは、最後の「早乙女」に亡母の晴れの姿を偲んだものと解される。生母は丹後与謝村から摂津毛馬村へ植え女として出稼ぎにきた旅早乙女であったらしい。其角『華摘』の満百の句が「有明の月に成りけけり母の影」であったことからも、『新花つみ』夏行の最初と最後は、前後対応する母のイメージと解すべきだ。
◇早乙女 田植女の意で植え女といい、插袂(しつけ)は女の仕事である。田の神に奉仕する聖女だから、晴着に新調の単衣・手拭・襷・菅笠などを用いる(山本健吉『最新俳句歳時記』)。黄楊の小櫛も女性の嗜みとして用意されたか。「雇人のあいさつうたふ田うゑ哉」(一笑・『華摘』)、「雇はれて老なるゆひが田植かな」(几董『井華集』)。]

 これらのことに関して、『与謝蕪村覚書(谷口謙著)』では、「与謝蕪村の母」・「蕪村の母余話」、そして、『蕪村の丹後時代(谷口謙著)』では、「蕪村の母『げん』の墓」・「蕪村の母」・「蕪村の母再考」と、執拗に蕪村の母について言及している。それらのいくつかについて、思いつくままに、その要点を記して置きたい。
# by yahantei | 2009-10-08 22:53 | 蕪村逍遥
蕪村の『新花摘』の挿絵周辺(その十三)
蕪村の『新花摘』の挿絵について、これまでに、その第二図から第七図までを見てきた。そして、最後に残った一枚が、第一図の「早乙女図」である。この「早乙女図」は、『新花摘』の発句(一~一三七)の末尾に書かれているものである。
 この発句(一~一三七)のうち、末尾の三句が、「田植・早乙女」に関するもので、その三句の挿絵と理解しても差し支えないのかも知れない。

一三五 鯰得てもどる田植の男哉
一三六 葉ざくらの下陰たどる田草取
一三七 早乙女やつげのをぐしをさゝで来し

 この一三五は、一二九と一三三とに関連して、蕪村の「父の俤」と重なるとの注釈も見る(『与謝蕪村集(清水孝之校注)』)。

一二九 をそ(獺)の住む水も田に引く早苗哉
一三三 をそ(獺)を打ちし翁を誘ふ田うゑかな

 蕪村の「父の俤」の句は、冒頭に近い、六句目にも見ることができる。

六 耳うとき父入道よほとゝぎす

 この句は、『曽我物語』に由来があって、「時鳥は王朝文雅を象徴する。伊東入道祐親が文雅を解したならば、同族間の血みどろの悲劇は起こらなかったであろう。また入道の二女は工藤祐経と離縁、三女は源頼朝と離縁という史実から、母の境遇を誤った蕪村の父を戯画化したか」との頭注を見る(清水・前掲書)。
 また、その解題(清水・前掲書)には、「中村俊定氏は蕪村の一夏千句の夏行の動機も亡母回らしいと指摘、五十回忌とすれば、母の没年は蕪村十三歳の享保十三年とみる大礒義雄氏仮説も提出された)」と、この『新花摘』が、亡母五十回忌の追善のためのものであり、その母は、享保十三年(一七二八)、蕪村、十三歳のときに亡くなったとの推定もしている。
 これまで見てきた、その「文章篇」の人名等が全て実在する人物のものであり、『宇治拾遺物語』に似せての、創作的な要素もあるが、それらの背景は、全くの虚構というよりも、実話的なものが、その背景となっていると理解しても、決して誤謬ではなかろう。
 と解すると、「発句篇」の方も、その背景には、蕪村の亡母などに由来するものが数多くあるだろという推定も十分に有り得ることであろう。
 そして、一三六の、「葉ざくらの下陰たどる田草取」に関する挿絵が、第一図の「早乙女」図とされている。その句意と頭注は次のとおりである(清水・前掲書)。

[ 暑い日ざしを避け葉桜の木陰を選んでたどる賑やかな田草取りの一家族。故郷毛馬村の家の回想(実際には大勢の雇人も使ったらしい)。田植後二十日ほどして一番草、土用のうちに三番草まで取る。一番草の情景か。挿絵参照。]

 もとより、これららの挿絵は蕪村のものではなく、その晩年の蕪村の側近ともいうべき、画俳二道の蕪村の後継者ともいうべき、月渓(呉春)によって為されたものであるが、月渓こそ、蕪村その人を知るに、最も相応しい人物のように思われるのである。
 そして、月渓がこれらの挿絵を描いたことが、むしろ蕪村本人が描いたものよりも、より客観的な真実味を訴え掛けてくるような思いも抱かせるのである。
 この第一図の「早乙女図」でするならば、薬缶を持って片肌を抜いている唯一の男性が、蕪村の「父」のイメージである。その男性の両脇の女性は子守女であろう。子守女の一人が赤児を背負っている。その赤児は「蕪村」のイメージでなくもない。そして、その赤児を背負っている子守女の前の、三人の早乙女のうち、その子守女を見ている(振り返っている)、その女性こそ、蕪村の「母」のイメージである。
 さらに想像を逞しくするならば、その「母」のイメージの女性の前の二人の早乙女は、蕪村の高弟で夜半亭三世を継いだ高井几董の「夜半翁終焉記」(『から桧葉』所収)の草稿に出てくる、「妻子両姉」の、蕪村の「両姉」の二人ということになる。
 これらのことは、もとより、ほんの思いつきの想像というよりも、夢想に近いものなのかも知れないが、ここで、『新花摘』の「発句篇」の末尾の句についての、『与謝蕪村集(清水孝之校注)』の頭注を全文掲載して置きたい。

一三七 早乙女やつげのをぐしをさゝで来し

[『伊勢物語』八十七段の古歌「芦の屋の灘の塩焼きいとまなみ黄楊の小櫛もささず来にけり」を踏み、化粧するひまもない早乙女の忙しさをいう。サ行音による整調及び濁音の配置が軽快なリズム感を出す。直前の田植男、田草取一家から田植女へと逆行するのは、最後の「早乙女」に亡母の晴れの姿を偲んだものと解される。生母は丹後与謝村から摂津毛馬村へ植え女として出稼ぎにきた旅早乙女であったらしい。其角『華摘』の満百の句が「有明の月に成りけけり母の影」であったことからも、『新花つみ』夏行の最初と最後は、前後対応する母のイメージと解すべきだ。
◇早乙女 田植女の意で植え女といい、插袂(しつけ)は女の仕事である。田の神に奉仕する聖女だから、晴着に新調の単衣・手拭・襷・菅笠などを用いる(山本健吉『最新俳句歳時記』)。黄楊の小櫛も女性の嗜みとして用意されたか。「雇人のあいさつうたふ田うゑ哉」(一笑・『華摘』)、「雇はれて老なるゆひが田植かな」(几董『井華集』)。]
# by yahantei | 2009-10-07 19:36 | 其角と蕪村
蕪村の『新花摘』の挿絵周辺(その十二)

蕪村の『新花摘』の挿絵の最後の第七図は、若き日の蕪村の知友・右江麦天(後に、渭北と改名)の俳席図である。その原文は次のとおりである。

[淡々が弟子に麦天といへるあり、浪花より秋田に行(ゆき)てしばらく客居せり(注・居候をしていた)。丈菖、麦天がはいかい(注・俳諧)に心酔して、又そのふみ(注・其角の書簡)を麦天にゆづりたり。それより麦天東都に来り、柳原といふ負郭(注・城の近く)の地に、あやしきやどり(注・粗末な借家)をもとめて住(すみ)けり。もとより貧しくて、衣食に給(注・窮)するてだても尽キ、相しる人もなければ、たのみよるべきよすが(注・縁者)もなくてありしを、余(注・蕪村)わかゝりし時、いさゝかこゝろざし(注・好意) をはこびて、轍魚のうれひ(注・わだちの水溜りの中で苦しむ魚のように困窮している憂いの様)をたすけ、とかくして月並(注・月例)の俳席をまうけ、西に東に奔走して鼓吹しければ、巴人・吏登・寥和・午寂などをはじめとして、たれかれあつまりけるほどに、のちのちは草庵にこぼるゝばかりなみ居つゝ、めでたき俳席となれり。麦天本意とぐべきをりを得て、やがて黙斎青峨が門に属して、名を渭北と改め、万句(注・百韻を百巻重ねたもの)の式ことゆゑなく、文台のあるじとなれり。おのづから作家の名高く、諸侯の門にも出入て、ことにときめきたり。されば渭北、故人(旧友)恋々情を謝せんがために、右の角がふみ(注・其角の書簡)を余にゆづらんといふ。余曰く、「子が家長物なし。たゞ此ふみをもて青氈とす。いかでたび得ん(注・どうして頂けましょうか)。無聊(注・心苦しい)の事也」とて、ひたすら避してうけざりけり。そのゝち、余は東都を去り、渭北は古人となれり。そのふみ、今誰が家に蔵(をさ)めけるにや、いとこゝろにくき事なり。]

ここに出てくる俳人の名は錚々たるものである。重複するものもあるが、ここで、それらを再掲して置きたい。

松木淡々→ 生年:延宝2(1674)没年:宝暦11.11.2(1761.11.27)。 江戸中期の俳人。幼名熊之助、のちに伝七。初号因角、のち渭北。別号半時庵。大坂西横堀阿波屋の子として生まれる。初め椎本才麿門。元禄13(1700)年江戸に出て立羽不角に師事し、やがて榎本其角を師とするに至る。宝永1(1704)年奥州に行脚,『安達太郎根』を編み、同3年3月に万句興行をして判者となる。翌年に其角が没してすぐ淡々と改号。同5年『其角一周忌』を編み、秋に京都へ移住した。正徳5(1715)年『六芸』を編み,夏には東下、その折の俳筵の記録『十友館』を帰京後刊行し、俳活動は活発化する。翌享保1(1716)年、洛東鷲峰山の中腹に半時庵を営み、翌2年に『にはくなぶり』の恋百韻を独吟し、京俳壇における地位を確立した。 神沢杜口の随筆『翁草』が、「そもそも洛の俳諧を中興せしも淡々、邪にせしも淡々なり」と評するように、連句において付合を無視して一句のたくみをもっぱらにする「一句立」を導入、世に迎えられた。同11年の『春秋関』を始めとする高点付句集は、前句はすべて省略され,付句のみを収めたものである。天明期に三宅嘯山の一派が批判するまで、淡々らの高点付句集は大衆の支持を得ることになる。同18年、江戸に下って、五色墨連中と交流し『紀行俳談二十歌仙』を編み、翌年、故郷大坂に門戸を張り、その門流は代々八千坊(房)を名乗り、「浪花ぶり」と称された。享保の上方俳壇に君臨した淡々は、経営の才があり、生活も豪奢を極め、性格ははなはだ俗臭を帯びていたといわれる。その俳風は、晦渋で、高踏を装って人を弄するところがあり、詩としての価値は認められない。代表句は「口癖のよし野も春の行衛哉」など。

早野巴人→ 生年:延宝4(1676)没年:寛保2.6.6(1742.7.7) 江戸中期の俳人。通称は甚助。別号は竹雨、宋阿、郢月泉、夜半亭。下野国烏山(栃木県那須郡)に生まれたが、はやくに江戸へ出た。俳諧は、榎本其角、服部嵐雪に師事した。両師他界後は、高野百里、稲津祇空らと親交を重ねた。享保半ばに京へ移住して、約10年間滞在。元文2(1737)年に再び江戸に下る。東下後、日本橋石町に夜半亭を結び、若き与謝蕪村や砂岡雁宕らを指導。かつ若きころを懐しみつつ風雅に遊んだ。その高邁な精神は、蕪村に示唆した「師の句法に泥むべからず」に明らかである。

桜井吏登→ 1681‐1755 江戸時代中期の俳人。天和(てんな)元年生まれ。江戸の人。姉は初代深川湖十の妻花千(かせん)。服部嵐雪(らんせつ)の門にまなび、享保(きょうほう)17年嵐雪の別号雪中庵をつぎ、2代となる。編著「ぬかぶくろ」などを刊行したが、病弱のため隠棲。晩年、ほとんどの句稿を焼却させたという。宝暦5年6月25日死去。75歳。別号に李洞、人左、斑象。

大場寥和 → 1677‐1759 江戸時代中期の俳人。延宝5年生まれ。江戸の人。服部嵐雪の門人。俳壇の革新をとなえ、享保(きょうほう)16年佐久間柳居らと「五色墨(ごしきずみ)」を出版。元文4年嵐雪の三十三回忌に「風のすゑ」を、延享2年「誹諧(はいかい)職人尽(づくし)」を編集、刊行した。宝暦9年10月29日死去。83歳。名は森茂。通称は仁左衛門。別号に咫尺、万里亭など。

人見午寂 → 林家の儒者・人見竹洞の甥、『本朝食鑑』の著者として知られる人見必大の息である。俳諧は其角門で、その『焦尾琴』に跋を書いて以後、多くの俳書に、漢文の「序・跋」を書いている。

前田青峨 → 1698‐1759 江戸時代中期の俳人。元禄(げんろく)11年生まれ。江戸の人。鴛田(おしだ)青峨の門人で2代青峨をつぐ。宝暦6年江戸俳諧(はいかい)の伝統の誇示と古風の復活をはかって「東風流(あずまぶり)」を編集、刊行した。宝暦9年4月16日死去。62歳。別号に春来、紫子庵。

右江渭北 → 1703‐1755 江戸時代中期の俳人。 元禄(げんろく)16年生まれ。大坂の人。松木淡々の門下。享保(きょうほう)の末ごろ出羽(でわ)秋田に滞在。以後江戸にうつり与謝蕪村(よさ‐ぶそん)らとまじわり、前田青峨(せいが)にまなぶ。元文4年万句興行を主催し、「江戸廿歌仙」「東風流(あずまぶり)」の刊行に協力した。宝暦5年4月11日死去。53歳。別号に麦天、渭江、時々庵。編著に「若俵(わかだわら)」など。

 これらの俳人は全て、蕪村よりも年長者で、蕪村の師の巴人に近い俳人といえよう。そして、この渭北についても、蕪村よりも十三歳も年上で、師の巴人の知友の淡々に近い、蕪村の先輩格の俳人といった方が良いのであろう。
 蕪村が巴人門に入ったのは、元文二年(一七三七)の頃で、渭北の名が、巴人(当時の俳号は宋阿)の『夜半亭歳旦帖』に登場するのは、元文四年(一七三九)の頃である。この『新花積』の回想は、蕪村が江戸に出てきた、その当時のものが多いともいえよう。
この渭北が亡くなったのは、宝暦五年(一七五五)で、渭北の享年は五十三歳である。当時、蕪村は四十歳でいまだ未婚で、丹後(現在の京都府の北部)の宮津に在住していた。この丹後は蕪村の母の出生地ともいわれている「与謝」郡も含まれており、蕪村の丹後時代(宝暦四年・一七五四~宝暦十年・一七六〇)というのは、蕪村の関東出遊時代(元文二年・一七三七~宝暦元年・一七五一)が俳諧修業・確立の時代とすると、画業の修業・確立の時代ともいえるものであろう。
 蕪村の、この回想録の『新花摘』は、安永六年(一七七七)、晩年の六十二歳のとき、「亡母追善の一夏千句を期しての夏行」としてなされたものであるが、蕪村の本業ともいえる画業関係の画人というものは出てこない。そして、上記のとおり、俳人関連のみが登場していて、この夏行が、俳人・其角の『花摘』(其角門人・湖十の『続花摘』)を意識してものと深くかかわっていることとも関係してこよう。
 そして、もう一つ注目すべきことは、この『新花摘』の最後に登場してくる、この渭北が、淡々とともに、浪花(大阪)出身ということで、蕪村の出生地(摂津国東成郡毛馬村)とも重なってくるということなのである。
 このことに関連して、渭北が秋田から江戸に出てきたのは、元文元年(一七三六)で、号は麦天であった。そして、その翌年に、淡々と改号し、この『新花摘』に出てくる、その「立机」は、その改号の翌年の元文三年(一七三八)とされている(清水孝之著『与謝蕪村集』所収「新花つみ」頭注「蕪村と淡々の三俳仙讃」)。
 蕪村が江戸に出てきたのは、享保二十年(一七三五)から元文二年(一七三七)の頃で、まさに、渭北が江戸に出てきた頃と合致するのである。そして、上記の原文のとおり、江戸に出て困窮している渭北を、同じく、江戸に出てきて間もない蕪村が、「余(注・蕪村)わかゝりし時、いさゝかこゝろざし(注・好意) をはこびて、轍魚のうれひ(注・わだちの水溜りの中で苦しむ魚のように困窮している憂いの様)をたすけ」、そして、そのお礼に、「角がふみ(注・其角の書簡)を余にゆづらんといふ」というのであるから、誠に、若き日の蕪村と十三歳年長者の渭北との、その当時の交遊関係が偲ばれてきて、興味のつきないところである。
 それ以上に、この渭北の記事をもって、この『新花摘』が終わっていることも、同じ浪花出身ということと併せ、同じような境遇にあったということで、ことさらに、蕪村にとっては忘れ得ざることだったということを暗示しているようにも思えてならないのである。

# by yahantei | 2009-09-28 07:54 | 其角と蕪村
蕪村の『新花摘』の挿絵周辺(その十一)

蕪村の『新花摘』の呉春の挿絵六図は、挿絵五図の中村風篁邸での「阿満図」に続き、やはり下館中村風篁邸での「三老媼図」である。そして、ここに登場する人物は、「白河の城主松平大和守殿の家士に、秋本五兵衛といへる撃剣者」で、俳号は「酔月」といわれる翁である。原文では、次のように記されている。

[この翁も風篁が家の奥の間にふしゐたりけるに、広縁の下にて老媼の三タ人(リ)ばかりつどひたるけはひ(注・様子)にて、よすがら(注・夜通し)つぶやく声す。何事をかたるにやと、耳そばだてうかゞひゐたるに、ひとつも聞とむべき事なし(注・聞きとめることができない)。たゞ夜いたくふけ行(ゆく)につけつゝ、あさましく(注・嘆かわしく)かなしく(注・心ひかれるように)おもはれて、夜明(あく)るまでえも(注・何とも)いねずありけるとぞ(眠ることもできずにいたということだ)。]

 これまでに登場してきた、常磐潭北、結城の丈羽・晋我、そして、下館の風篁の妻・阿満というのは、若き日の蕪村にとっては、いずれも忘れ得ざる恩人といっても差し支えない方々であろう。それらに比して、この白河藩の秋本五兵衛こと酔月という俳人は、蕪村の恩人というよりは、蕪村と同じく居候・風来者という印象なのである。

 そして、これまでの、丈羽・晋我・阿満のそれは、狸・狐との「狐狸談」という雰囲気なのであるが、この酔月のものは、奇妙な「ひとつも聞とむべき事なし(注・聞きとめることができない)」ような「言葉遣い」(方言的なニュアンスもあるか?)をする三人の老媼の「怪奇談」という雰囲気なのである。

 後に蕪村は「紫狐(しこ)庵」という号も称するが、若き日の関東出遊時代から、この種の「狐狸・妖怪」嗜好を有していたということのであろうか。現在、茨城県立博物館蔵の「妖怪画巻」(複製・紙本墨画一巻)などを目にすることができるが、ここには、猫の化け物、尻の穴に目のある化け物、銀杏の木の化け物、真桑瓜の化け物など、さながら、今日の、水木しげるの妖怪物の元祖を見るような趣すらするのである。

 水木しげるにも「のんのんばばあとオレ」という傑作ものがあるが、さしずめ、蕪村の『新花摘』の挿絵六図の「三老媼図」(月渓筆)は、蕪村の「のんのんばあばあ」というようなところであろうか。

 さて、秋本五兵衛こと酔月なのであるが、この酔月が、砂岡雁宕の紀行文『雫の森』に登場してくる。雁宕の『雫の森』は、宝暦十一年(一七六一)前後のもので、結城・下館・笠間・水戸・那珂湊・常陸太田・石岡・筑波・久下田・真岡・宇都宮と約二ヶ月にわたる常陸・下野の吟遊にかかわる紀行文である。

 その結城出発は九月二十二日で、下館に二十三・四日と風篁宅にいて、そこから笠間に向かう櫻川の所で、「櫻川の紅葉また類ひなし、いつの年にや酔月、蕪村、大済等ともなひ連で、花の盛を眺め暮して、こゝろ葉もともにふりたる桜かな、と云けるに、その友さへミなうせて、はたとせもやふりゆく事なと独行頻に懐旧す」と雁宕は綴っている。

 この宝暦十一年には、蕪村は京都にいて、健在であったが、既に、酔月と大済は亡くなっていたのであろう。そして、雁宕と蕪村との手紙の遣り取りなども途絶えていたのであろう。 

この雁宕の紀行文から、かって、蕪村が結城・下館に移住していた頃、「雁宕・酔月・大済」等と、筑波周辺を吟遊したことがあったのであろう。

 こうして見てくると、白河藩の秋本五兵衛こと酔月という俳人もまた、若き日の蕪村の、忘れ得ざる俳人の一人であったということが察知されるのである。そして、同時に、蕪村の回想録の『新花摘』に登場してくる人物というのは、その悉くが、実在する人物で、且つ、蕪村にとってはかけがえのない人達であったのだということに思い知るのである。

 ともすると、蕪村の『新花摘』は未完成で、その妖怪・狐狸談のところなどは、これは、はなはだ、非現実的な、空想の絵空事と思われがちだが、蕪村にとっては、決して、その種のものではなかったということを実感するのである。
# by yahantei | 2009-09-13 09:06 | 其角と蕪村
蕪村の『新花摘』の挿絵周辺(その十)

 下館中村風篁邸での「阿満図」に続いて、『新花摘』では、早見晋我(「その六」で触れた)について記述している。その出だしのところは次のとおりである。

[又、晋我、介我門人といへる翁有けり。一夜(注・ある夜)風篁がもとにやどりて(注・泊まって)、書院(注・座敷)にいねたり、長月(注・九月)十九日の夜なりけり。月きよく露ひやゝかにて、前栽の千くさに(注・前庭の千草に)むしのすだくなど、ことにやるかたなくて、雨戸はうちひらきつ、さうじ(注・障子)のみ引たてふしたり(注・寝ていた)。四更(注・午前二時)ばかりに、はしなく(注・ふと)まくらもたげて見やりたるに、月朗明にして宛(あたか)も白昼のごとくなるに、あまたの狐ふさふさとしたる尾をふりたてゝ、広縁のうへにならびゐたり。]

 蕪村の『新花摘』は、安永六年(一七七七)、年齢にして六十二歳の頃に起草しものであるから、かれこれ、三十年弱に遡っての回想録ということになる。その随分前の回想録に、「長月(注・九月)十九日の夜なりけり」とは、どうにも首を傾げたくなるような、何か、その当時の書き付けなどがあって、そういうものを目にしての叙述のような印象すら受けるのである。

 それは、丁度、芭蕉の「笈の小文」(道中常に携行して書き付けしたものの記録集)のようなものがあって、そういう書き付けたものを参考としながら、それを絵画や俳諧の創作時に活かしているような、そんな印象を、この記述などから受けるということにほかにらない。

 それはひとえに、蕪村が、この晋我に捧げた俳詩の「北寿老仙をいたむ」(「晋我追悼曲」)が、その背景にあるということは言うまでもない。晋我が亡くなったのは、延享二年(一七四五)一月二十八日、享年七十五歳であった。時に、蕪村は三十歳で、その前年に、宇都宮で、『寛保四年宇都宮歳旦帖』を世に出して、俳諧宗匠としての、終世の号になる、「蕪村」の号を名乗った頃でもある。

 この早見晋我については再掲することとなるが、晩年は北寿老仙と称して、其角門で、その「晋我」の「晋」は、其角の号の一つの「晋子」の「晋」に由来があるものであろう。其角亡き後、佐保介我門に入り、当時の結城俳壇の長老格の一人であったろう。

 ここで、先(「その八」)に紹介した晋我などが登場する俳書などを再掲して置きたい(なお、下記の「周午」は雁宕の前号として、蕪村の年譜などを付記して置く)。

○1『きくいたゝき』(正徳三年成・一七一三)晋我・我尚(雁宕九歳?) 
○2『今の月日』(享保七年刊・一七二二) 周午・晋我・我尚・杏坡
○3『百華実』(享保八年刊・一七二三)周午(雁宕一九歳? 蕪村七歳)  
○4『点取俳諧』(享保八年成・一七二三) 周午・晋我・杏坡
○5『百千萬』(享保十年刊・一七二五)  周午・晋我・杏坡
○6『享保万年丙午結城連』(享保十一年成・一七二六) 周午・晋我・杏坡
○7『享保十七年壬子年』(享保十七年成・一七三二)  周午・晋我
○8『綾錦』(享保十七年刊・一七三二)  我尚(故人)・周午(雁宕三〇歳?=立机?) 
○9『夜半亭歳旦』(元文三年成・一七三八)雁宕・晋我(蕪村二三歳、前年に宋阿門入門)
○10『夜半亭歳旦』(元文四年成・一七三八)雁宕・晋我(蕪村二四歳、号は「宰鳥」)
○11『桃桜』(元文四年刊・一七三九)  雁宕・晋我(同上)
○12『夜半亭歳旦』(寛保元年成・一七四一) 雁宕・晋我(蕪村二五歳、筑波詣で?)
○13『宇都宮歳旦』(寛保四年刊・一七四四)雁宕(蕪村二九歳=『宇都宮歳旦帖』を編む=立机)

 上記の俳書の成立時などを見ていくと、○1『きくいたゝき』(正徳三年成・一七一三)は嵐雪七回忌追善句集で、雁宕の『俳諧一字般若』に、「『きくいたゝき』に『不侫若年常に随って給仕す』」とあり、雁宕が若年にして(九歳の頃か)、父の我尚や伯父(我尚の義兄弟)の晋我に伴われて句会などに出入りしていたことがうかがえる。また、『きくいたゝき』は嵐雪の高弟・周竹編で、雁宕の前号が周午とすると、その「周」は周竹の「周」に由来があるのかもしれない。

 また、○2『今の月日』(享保七年刊・一七二二)は、我尚の亡くなった(享保六年)翌年の刊行で、いわば、我尚追善句集ともいえるものである(潭北編)。そして、我尚が亡くなったときに、その長子の周午(雁宕)は、十八歳の頃で、この『今の月日』では、結城の主要俳人として登場してくる。さらに、○8『綾錦』(享保十七年刊・一七三二)では、周午(雁宕)は、三十歳の頃で、ここでは、我尚の跡を継いで、結城の宗匠格の俳人としてその名を留めている。

 そして、蕪村が俳諧宗匠格として登場するのは、○13『宇都宮歳旦』(寛保四年刊・一七四四)で、蕪村は、二十九歳、雁宕は、四十一歳の頃ということになる。

 こうして、周午(雁宕)と蕪村との軌跡を見ていくと、結城の俳人・早見晋我は、砂岡雁宕を育てて、そして、蕪村が独り立ちするのを見届けて、その翌年(延享二年)に、その七十五年の生涯を閉じたということになる。

 ここで、『晋我追悼曲』(北寿老仙をいたむ)の成立時期に触れると、晋我が亡くなった延享二年(一七四五)説と、そして、その三十三回忌の頃にあたる安永六年(一七七七)説との二つがあり、さらに、七回忌の頃にあたる宝暦二年(一七五二)説も十分に考えられる(これらのことについては、下記のアドレスのものを再掲して置きたい。)

 また、この『晋我追悼曲』(北寿老仙をいたむ)が収録されている『いそのはな』は、晋我の継嗣の桃彦(二世晋我)が、父早見晋我(一世晋我)の五十回忌追善集として編纂して、寛政五年(一七九三)に刊行している(この全文の翻刻は『蕪村全集四(講談社)』に収録されている)。この『いそのはな』には、晋我(一世)と百里との両吟歌仙が収載されており、当時の三大俳人(蕪村『むかしを今』所収「序」の「巴人・百里・琴風」)の一人の百里(嵐雪の高弟)と両吟歌仙を巻くということは、晋我が、結城の宗匠格の俳人であったということも物語っているであろう。

 さらに、この蕪村の回想録の『新花摘』は、安永六年(蕪村・六十二歳)の起草であり、この当時、晩年の蕪村は、しきりと、若き関東出遊時代の頃に思いを馳せていたということも、併せ、特記をして置く必要があろう。

 とにもかくにも、結城の宗匠格の俳人の早見晋我は、俳諧史上の一角に、その名を留めている、与謝蕪村と砂岡雁宕を育み、終世支援を続けた俳人であったということで、蕪村の俳詩『晋我追悼曲』(北寿老仙をいたむ)と併せ、忘れ得ざる俳人の一人としての位置づけをして置きたい。

http://blogs.yahoo.co.jp/seisei14/59567829.html

(再掲)若き日の蕪村(四十~四十三)の(四十)

[○連作和詩編「北寿老仙をいたむ」は、北寿の亡魂を供養するため「釈蕪村」と署名して己れの心身を僧体(清浄)にし、自作詩を詠唱して読経にかえたのであろう。「百拝して書す」と結んだのは、これは写経文のように浄書して寺に納めたことを示している。それはあくまでも仏の世界に逝った北寿と僧蕪村との密かな語らいだった。

 この『蕪村伝記考説』の、「自作詩を詠唱して読経にかえた」・「これは写経文のように浄書して寺に納めた」・「仏の世界に逝った北寿と僧蕪村との密かな語らいだった」という指摘は、この俳詩(註・連作和詩)に接して同じような感慨を抱く。そして、この感慨は、この俳詩が、晋我没後直後の延享二年に作られたものではなく、後年の、安永六年に、延享二年当時を回想して創作したものだとする、安永六年説の次の疑問を解きほぐしてくれる一つのキィーポイントと理解をしたいのである。

http://www.kyosendo.co.jp/rensai/rensai31-40/rensai39.html

※蕪村は享保元年(一七一六)攝津国東成郡毛馬村に生まれた。彼は享保年中(~一七三五)に江戸へ出て来て、二十二才の時に、早野巴人(宋阿)の門に入り俳諧を学ぶと同時に、絵画や漢詩の勉強もしたという。寛保二年(一七四二)、師の巴人が亡くなった後、同門の下総結城の砂岡雁宕(いさおかがんとう)の許に身を寄せ、その後十年、関東、奥羽の各地を廻り歩く。北寿の晋我は結城で代々酒造業を営む素卦家で、通稱を早見治郎左衛門と云い、俳諧は其角の門下で、其角の没後、その弟子の佐保介我に師事したという。晋我は結城俳壇の主要メンバーの一人で、蕪村のよき理解者だったが、延享二年(一七四五)に七十五才でこの世を去った。その時、蕪村は三十才だった。「北寿老仙をいたむ」は、その晋我の追悼詩だが、この詩が実際に世に出たのは、その五十年近く後の寛政五年(一七九三)で、晋我の嗣子、桃彦(とうげん)が亡父の五十回忌に当たり出版した俳諧撰集『いそのはな』の中で、「庫のうちより見出しつるままに右にしるし侍る」と付記があるという。この詩は晋我が死んだ延享二年の作といわれているが、その時、三十才だった蕪村が七十五才の晋我に対して「君」と呼びかけ、「友ありき」などというのは不自然だとして、尾形仂(おがたつとむ)氏は次のような説を述べている。蕪村は三篇の俳詩をものしているが、「北寿老仙をいたむ」以外の二篇、「春風馬堤曲」と「澱河歌」(でんがか)はいずれも安永六年(一七七七)出版の『夜半楽』に収められている。安永六年は晋我の三十三回忌に当たることから、晋我の三十三回忌の記念出版が企てられ、嗣子の桃彦から寄稿の要請を受けて作ったものではないか、というのである。「すでに蕪村は、老境の悲しみを知り、心理的にかっての長上晋我を『友』と遇し『君』と呼んでもそれほど不自然ではない老齢に達していた」(『蕪村俳句集』の解説)、時に蕪村、六十二才である。しかし、その三十三回忌の出版は何らかの理由で中止になり、蕪村の原稿は五十回忌の『いそのはな』の出版時まで桃彦の家の庫の中に収まったまま眠っていた、というのである。なる程、そう考えると、確かに辻褄があう。いずれ、この説が立証されるかもしれない。(上記のネット記事)

さらに、上記の『蕪村伝記考説』の指摘に、先に触れた次の事項の再確認をしたいのである。

※阿師没する後、しばらくかの空室に坐し、遺稿を探(さぐり)て、一羽烏といふ文作ら
んとせしも、いたづらにして歴行する事十年の后(のち)、飄々(ひょうひょう)として西に去(さら)んとする時、雁宕が離別の辞に曰(いわ)く、再会興宴の月に芋を喰(くう)事を期せず、倶(とも)に乾坤(けんこん)を吸(すう)べきと、其(その)言をよしとして、翅書(ししょ)さへまめやかにせざりしに、ことし追悼編集の事告(つげ)来(きた)るにぞ、さすがに涙もろく、斎団扇(ときうちわ)の上に酬書(しゅうしょ)し侍る。跋とすやしらず、捨(すつ)るやしらず。 釈蕪村

(わが宋阿師が没して後、しばらくその主の無い家に居て、わが師の遺されたものを調べまして、それらを一羽烏という題にて文集を作ろうとしましたが、何をすることもなくあちこちと歴行をするばかりで十年が過ぎてしまいました。そして、当てもなくこうして京都に再帰するにあたり、兄事していた雁宕の別れの言葉に、再会月見の興宴の時には芋などを喰らっていずに、お互いに天下を一飲みに飲み干そうと言われ、その言葉を肝に銘じて、手紙もこまめにせず過ごしてきましたが、今年、宋阿師の追悼編集の連絡を受けまして、どうにも涙がこぼれてなりません。その追悼の法事に供する団扇に、こうしてその返書をしたためましたが、それが、跋文になるのものやら、それとも捨てられてしまうものやら、とにもかくにも、返書をする次第です。 釈蕪村 )

※※これは、雁宕他編『夜半亭発句帖』に寄せられた蕪村の「跋文」である。『夜半亭発句帖』は、宝暦五年(一七五五)に夜半亭宋阿こと早野巴人の十三回忌にその発句(二八七句)を中心にして上梓したものである。この序文は雁宕が宝暦四年の巴人の命日(六月六日)をもって記しており、上記の蕪村の跋文もその当時に書かれたということについては動かし難いことであろう。この宝暦四年(蕪村、三十九歳)に、蕪村は京を去って丹後与謝地方に赴き、宮津の浄土宗見性寺に寄寓し、以後三年を過ごすこととなる。この丹後時代の蕪村の署名は、「嚢道人蕪村」というものが多く、この『夜半亭発句帖』の「跋文」に見られる「釈蕪村」の署名は、蕪村が京に再帰した宝暦元年(一七五一)からこの跋文が書かれた同四年頃までに多く見かけられるものである。そして、「北寿老仙をいたむ」の「北寿老仙」こと早見晋我が没したのは延享二年(一七四五)であり(その前年の延享元年に巴人亡き後の親代わりのような常磐潭北が没している)、それは巴人が没する寛保二年(一七四二)の三年後ということになる。即ち、巴人十三回忌に当たる宝暦四年前の宝暦二年前後が、晋我(また、常磐潭北)の七回忌に当たり、その頃、在りし日の北関東出遊時代のことを偲びながら、当時京都に再帰していた蕪村が、古今に稀な俳詩「北寿老仙をいたむ」を書き、そして、当時こまめに文通していた晋我の継嗣・桃彦宛てに、「釈蕪村百拝書」と署名して送ったもの、それが、「北寿老仙をいたむ」の作品の背景にあるように思えてくるのである。]

# by yahantei | 2009-08-08 15:04 | 其角と蕪村
蕪村の『新花摘』の挿絵周辺(その九)

蕪村の『新花摘』の呉春の挿絵五図は、下館中村風篁邸での「阿満図」のものである。

http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf34f.html

 蕪村の『新花摘』の原文は次のとおりである。

[ひたちのくに下館(注・常陸国下館)といふところに、中むら兵左右衛門(注・中村兵左右衛門)といへる有。古夜半亭(注・故夜半亭宋阿)の門人にて俳諧をこのみ風篁とよぶ。ならびなき福者(注・資産家)にて、家居つきづきしく(注・家造りも似合わしく)方弐町(注・二町四方)ばかりにかまへ、前栽後園には奇石異木をあつめ、泉をひき鳥をはなち、仮山(注・築山)の致景(注・景色)、自然のながめをつくせり。国の守(注・「かみ」の読み。当時の下館城主は石川内膳正総候)もをりをり入おはして、又なき長者にて有けり。妻は阿満(注・「おみつ」の読み)というて、藤井某といえる大賈(注・豪商)の女にて、和歌のみち・いと竹(注・「いと(糸)」=琴、「竹」=笛)のわざにもうとからず。こゝろざま(注・気だても)いうに(注・優に)やさしき女也けり。]

 上記に出てくる「風篁」は、中村風篁で、『結城市史』によると、九代目風篁で、本名は兵左右衛門左教とのことである。この中村家は、下館の大町十人士と称される旧家の中でも代表的な名家で、代々町名主を務めるるとともに、古くから商業活動に従事し、地方文化の発展に貢献していたという。
 この風篁の妻が「阿満」で、須賀川の豪商にして俳人の藤井半左右衛門晋流の娘である(この晋流については「その二」で触れた)。そして、この阿満が登場する、この挿話を、「風篁家の怪異」(『俳句講座五』所収丸山一彦稿)として、「漂揺する夢幻味で覆い尽くした手腕は、さすがに非凡である」と好評している。その全文を下記に記しておきたい。

[ここは風篁家にからまる老狐の怪が記されている。前掲の「見性寺奇譚」が、多分にユーモラスな気分を漂わせているのに対して、これはまた幻想的な妖しい美しさにあふれている。狸はどこか飄逸な感じがあり、狐には妖しい翳がつきまとうのが常であるが、更にこの一話は人づての怪異を記したものだけに、多分に蕪村好みの脚色も加わって、このような夢幻的雰囲気を醸し出されたのであろう。しかも家運傾く豪家を背景にして、「優にやさしき」妻女阿満の登場は、蕪村ならずとも、幻想的気分をかき立てるに十分な好話題であった。始めに風篁家の豪壮な家構えと、その荒廃のさまを描き、「其の家のかくおとろへんとするはじめ、いろいろのつけ多かりけり」という書き出しは、いささか因果噺めくが、続く桶の餅の奇怪な紛失事件は、その後、相次いで起こる狐怪の棟梁への前奏として、巧みな布置である。人も寝静まった深更、老狐の群れが「ゆらゆら尾を引いて」膝元を過ぎて行くのを、放心したように見守る阿満の姿は、現つならぬ妖しさに包まれている。翌日、恐怖に満ちた体験を、まるで人ごとのように淡々と語る彼女の姿も尋常ではない。「いついつよりもかほばうるはしく」、しかも「つゆおそろしとも覚え」ぬ気色であったとは、さながらに白狐の精と化したかと疑わしめる。最後の幕切れまで、漂揺する夢幻味で覆い尽くして手腕は、さすがに非凡である。風篁家の狐の怪に関しては、この後に二話記されている。一つは晋我がこの家に宿って、深更目を覚ますと、月明らかな広縁に狐があまた並び手、その影がありありと障子に映ったという話と、もう一つは秋本五兵衛(俳号は酔月)という撃剣者が、風篁家の奥の間に臥していると、広縁の下で老媼の夜すがら呟く声が聞こえたという話である。以上三話の中、この一話が最も長文で、かつ出来映えもすぐれている。]

# by yahantei | 2009-07-26 20:24 | 其角と蕪村

蕪村の『新花摘』の挿絵周辺(その八)

四 周午は砂岡雁宕の前号か

前回(その六と七)、「周午は砂岡雁宕の前号」と解して記述してきた。たまたま、「文学論藻(四七集第六八号)」(東洋大文学部国文学編)所収の「周午は砂岡雁宕の前号か」(杉浦美希稿)を目にすることができた。この論稿を紹介し、その若干のことについて、違った見解をも付記しておきたい。

[ 「周午は砂岡雁宕の前号か」(杉浦美希稿)

一 与謝蕪村と共に早野巴人(宋阿)門にあって、下総結城の俳人として知られる雁宕が生まれた砂岡家は、繰綿(くりわた)の取引や醤油の醸造・販売、田川・鬼怒川を利用した運送業などに従事し、結城藩の御用商人的の立場にあったかともいわれている名家である。

二 父我尚は介我門の俳人であり、祖父宗春も俳人として知られている。また、蕪村の俳詩「北寿老仙をいたむ」で知られる北寿こと早見晋我は雁宕の叔父にあたる。下館の中村風篁の分家に当たる中村大済に実妹、宇都宮の佐藤露鳩に娘が嫁いでおり、雁宕は幼い頃から俳諧に親しんできたことが推測される。

三 雁宕が、一般に俳諧史上で取り上げられるのは、次の三点で、特に、②の蕪村の交流においてよく知られている。

① 元文元(一七三六)年に上洛した際、当時京在住の巴人を訪問して、翌年の巴人の江戸帰郷の直接のきっかけとなったといわれていること。また、巴人の高弟として活躍し、巴人死後にも追悼集『夜半亭発句帖』や『反古衾』を編んだこと。
② 巴人死後の関東遊歴時代の蕪村を支え、暖かく見守った人物であること。
③ 江戸座の『江戸二十歌仙』を批判した大島蓼太の『雪おろし』に反論し、『蓼すり古義
『俳諧一時般若』の二書を著したこと。

四 従来、雁宕の弟と言われてきた周午の活躍する時期から雁宕が登場する時期を中心とした結城の主要俳人の俳書等への入集状況は次のとおりである。

○1『きくいたゝき』(正徳三年成・一七一三)晋我・我尚 
○2『今の月日』(享保七年刊・一七二二)  周午・晋我・我尚・杏坡
○3『百華実』(享保八年刊・一七二三)   周午
○4『点取俳諧』(享保八年成・一七二三)  周午・晋我・杏坡
○5『百千萬』(享保十年刊・一七二五)   周午・晋我・杏坡
○6『享保万年丙午結城連』(享保十一年成・一七二六) 周午・晋我・杏坡
○7『享保十七年壬子年』(享保十七年成・一七三二)  周午・晋我
○8『綾錦』(享保十七年刊・一七三二)   周午・我尚(故人) 
○9『夜半亭歳旦』(元文三年成・一七三八) 雁宕・晋我
○10『夜半亭歳旦』(元文四年成・一七三八) 雁宕・晋我
○11『桃桜』(元文四年刊・一七三九)  雁宕・晋我
○12『夜半亭歳旦』(寛保元年成・一七四一) 雁宕・晋我
○13『宇都宮歳旦』(寛保四年刊・一七四四) 雁宕
○14『蓼すり古義』(明和八年刊・一七七一) 雁宕(著)・周午(跋文に「小弟周午」) 
○15「牡丹詠刷物」(年代不明)       周午・晋我・杏坡
○16「逸題・連句帖」(年代不明)      周午・杏坡
(雁宕号での初出は『首夏十七日郢月泉興行』・元文元年=一七三六)

五 享保七年(一七三二)の『今の月日』は潭北編の俳諧随筆集である。潭北は介我門の俳人といわれる周午らの父我尚と親しかった。この『今の月日』は前年の享保六年(一七二一)九月に亡くなった我尚の追悼集の性格が強く、我尚の独吟・発句、また、結城や江戸の俳人達による我尚追悼句が収められている。

六 この頃の周午の年齢は、宝永元年(一七〇四)頃生まれと推定される雁宕ですら、まだ二十歳前であることを思えば、それよりも年下の弟が兄の雁宕をさしおいて、父の追悼句を詠むというのは不自然なことではなかろうか。さらに、周午は、我尚・潭北・丁雅・周午の発句を添えた俳画(四葉)も収めている。このような俳画を俳書に収めるには、多少の修練を必要としたものと思われ、それほど年少の者の作品とは考え難いであろう。

七 雁宕が俳画に習熟していたことは、『今の月日』のものだけではなく、上記の○3『百華実』のものや、中村兵左右衛門家蔵の「小刷物」、雪中庵(嵐雪)の「たまたまに引く人もあり赤大根」のもの(乾猷平著『蕪村の新研究』所収・今里博蔵、『結城市史』に所収)などが明瞭なところである。

八 ○8『綾錦』には、周午は我尚の長子で、我尚の俳系を継いでいるのだが、従来周午が雁宕の弟であると考えられてきたことと矛盾する(その六で触れた)。

九 周午が雁宕の弟とするのは、『俳聖蕪村の結城時代』(富高武雄著)の[俳人として動きを見られ当時の句集や俳書の間にその名が著われ『綾錦』沾涼編享保十七年刊には我尚と周午が収録されており、「同苗長子」となっている。(中略)しかし、『蓼摺古義』の跋に「小弟周午」とあり、雁宕を「老人」と敬意を表する点は容易には看過できないであろう。従って雁宕の弟と解するのが妥当とみられる]によっている。

十 しかし富岡氏の説明によってもわかる通り、周午が雁宕の弟でなければならない理由は、○14の『蓼すり古義』の跋に雁宕の息、進歩と共に「小弟周午」と名を連ねているという点のみである。そして、これだけの活躍をしている周午という人物が元文年間以降になると、突如として俳書に姿を現さなくなるのはむしろ不自然といわざるを得ないであろう(その六で触れた)。

十一 そこで、○14の『蓼すり古義』の跋に見られる周午と享保年間に活躍する周午とを別な人物として考えてみたいのである。つまり、享保年間以前に見られる周午は、雁宕の前号で雁宕自身であり、『蓼すり古義』に見られる周午は雁宕の弟(もしくは弟子)であり、雁宕が若い頃に使っていた前号「周午」を譲られたのではなかろうか。

十二 「周午」から「雁宕」への改号の時期は、おそらく享保から元文に改元される前後であろう。また、巴人の元へ状況した際に改号した可能性もあるだろう。

十三 元文元年(一七三六)の雁宕の訪問が巴人の江戸へ戻る直接の動機となったということも、単に関東から訪問してきたかっての友人の息子であるというだけではなく、実力と財力を兼ね備えた若い雁宕の訪問となれば、説得力を持つのではなかろうか。

十四 また、青年期の雁宕が、周竹・百里ら嵐雪系の俳人と親しく接しているということは、江戸座を非難した雪門の蓼太に対する反論・ライバル意識が単に江戸座対雪門という構図におけるものだけではないことを再確認させてくれるのではなかろうか。]

以上が、「周午は砂岡雁宕の前号か」(杉浦美希稿)の骨子である。そして、これらの一から十までのものについては、全面的に首肯できる。問題は、上記の十一の[『蓼すり古義』に見られる周午は雁宕の弟(もしくは弟子)であり、雁宕が若い頃に使っていた前号「周午」を譲られたのではなかろうか]というところである。ここのところは、『蓼すり古義』に出てくる「男・沖翼、小弟・周午、小子・進馬」の、この三人の、雁宕との関連における「男・小弟・小子」との理解如何にかかってくると解せられる。

ちなみに、『潁原退蔵著作集四』所収「続俳諧論戦史」)では、[この『蓼すり古義』は、『江戸二十歌仙』を非難した大島蓼太の『雪おろし』に対する反駁書で、「この書は元来宝暦初年に筆を執ったものであるが、その後世に流布するものの誤脱が多いので、雁宕の子沖翼が新たに刪定して梓行しようとしたが果さずして没した。よってその弟周午と子進歩とが志をついで、明和八年五月に至り 始めて上梓した」]とあり、上記では、ここのところについて触れていないことについて、若干の補足が必要な印象を受けるのである。

とした上で、亡くなった「男・沖翼」と「小子・進馬」(雁宕十三回忌追悼集『たままつり』編者で雁宕の子息と解せられる)は、雁宕の子息と解したい。そして、「小弟・周午」は、上記十一の「周午は雁宕の弟(もしくは弟子)」と解することと併せ、「雁宕本人のカムフラージュした偽装名」の印象すら抱かせるということを付記しておきたいのである(そもそも、この大勢力の大島蓼太一門と小勢力の砂岡雁宕一門との論争は、当時者の大立者・蓼太は正面には出て来ないで、その門人の魚汶や松隣などの代理論争という体裁を取り繕っていることと関係して、若い頃の号の「周午」を、雁宕がカムフラージュして使用しているという理解である)。

そして、これらの『蓼すり古義』の「男・沖翼、小弟・周午、小子・進馬」との問題は、そのまま確たる結論は保留にしても、上記四の「周午・雁宕」とその両名が出てくる俳書との関連からして、「周午は砂岡雁宕の前号である」ということは、極めて自然のことと理解をいたしたい。
# by yahantei | 2009-07-24 07:14 | 其角と蕪村

三 結城の俳人・砂岡雁宕のことなど

 『結城市史』所収「第四編宗教と文化」における「砂岡雁宕」についての記述は多くの頁を割いている。ここでは、それらに因ることなく、『故砂岡雁宕について』(昭和五十四年十月・雁宕句碑建立委員会)所収の「砂岡雁宕年譜」に、『今の月日』を編んだ常磐潭北や前回の「周午は雁宕の前号」(その七の二「潭北の『今の月日』に登場する結城の俳人」)とを踏まえての項目を新たに付け加えて、その年譜を通しての「砂岡雁宕」像というものを見てみたい。

砂岡雁宕年譜(『故砂岡雁宕について(雁宕句碑建立委員会)』所収) 
△=『結城市史』(「周午は雁宕の前号」として)のものなどを追加
□=潭北主要年譜などを追加

元禄末年(一七〇三)の頃  雁宕が生まれた。△雁宕の生年未詳。□巴人、二十八歳。潭北、二十七歳(巴人と潭北とは同年生まれの説もある)。

宝永二年(一七〇五)七月二十八日  雁宕の祖父・三右衛門宗春死す。「心誉宗無居士」。△俳号は立幸(古立志の門人)。

正徳三年(一七一三)十月十三日  服部嵐雪七回忌。追悼句集『菊いただき』出版に給仕した。△我尚・晋我の句が『菊いただき』に入集。

□享保元年(一七一六)潭北、四十歳。『汐越』(『汐こし』)刊行。
享保六年(一七二一)九月七日  雁宕の父我尚死す。三右衛門宗福。「禅誉宗阿証心居士」。
△我尚の享年三十九歳(逆算すると天和二年=一六八二年頃の生まれとなる。)
□同年(一七二一)潭北、四十五歳。『民家分量記』(内題「百姓分量記」)の稿成る。

□享保七年(一七二二)潭北、四十六歳。『今の月日』(『後の月日』)刊行。△周午(雁宕)・丁雅の句入集。

□享保九年(一七二四)潭北、四十八歳。『婦登故呂故』(『俳諧婦登古呂子』)の稿成る。

□享保十年(一七二五)潭北、四十九歳。『百華斎随筆』刊行。

□享保十一年(一七二六)潭北、五十歳。『民家分量記』(「百姓分量記」)刊行。

享保十二年(一七二七)五月十一日 雷堂高野百里死す。百里は仙台に茅風庵開く(百里の死後雁宕一時寄寓した)。△百里は高野氏。雷堂は庵号。△『綾錦』(菊岡沾涼編)に俳諧宗匠として「潭北・我尚・周午(雁宕)」の名と句が入集。

享保十八年(一七三三)正月七日  雁宕の妹かね死す。中里丁雅の妻 享年二十五歳。
□同年(一七三三)潭北、五十七歳。『野総茗話』(「分量夜話」)刊行。

享保二十一年(元文元年・一七三六)・(四月二八日改元)春  雁宕は江戸俳壇革正の盟主に老師早野巴人を迎えるため京都へ上り、巴人に帰東を促す。
同年(一七三六)四月十七日  巴人主催で郢月泉一門が雁宕帰東の送別百韻を興行した。

元文二年(一七三七)四月十九日 早野巴人は愛弟子の雁宕の懇請によって京都を出発三十日に江戸へ着いた。月余常総の旧友知人を訪れた後江戸の石町に居所を定む。夜半亭という。
□同年(一七三七)潭北、六十一歳。『民家童蒙解』刊行。

元文三年(一七三八)正月 巴人は江戸にて春を迎えた。当時宗阿または宋阿と改号す。居所に宰鳥(後の蕪村)が内弟子となっていた。
同年(一七三八)五月十日  宋阿一門が、下館の高峨(板谷氏)において百韻を興業した。 雁宕も参加した。

元文四年 (一七三九) 十一月  宋阿(巴人)編[其角・嵐雪三十三回忌追悼句集『桃桜』]が成る。雁宕も入集す。

元文五年(一七四〇)冬 雁宕は江戸へ老師の宋阿を訪れて後に宰鳥(宰町)伴い常陸へまわり、筑波山に詣うでて結城へ帰った。宰鳥も結城に越年した。

寛保二年(一七四二)六月六日 雁宕の老師・早野宋阿が江戸に死す。享年六十六歳。 雁宕、宰鳥と共に葬送した。雁宕は結城へ帰る。
同年(一七四〇)その秋 宰鳥は雁宕を慕って結城へ来る。これより宰鳥(蕪村)の結城時代始まる。
同年(一七四〇)その冬 宰鳥は雁宕の許を出立し奥羽旅行の途に就いた。

寛保四年(一七四四)正月(延享元年二月二十一日改元) 宰鳥は宇都宮の佐藤露鳩(雁宕の女婿)の許にて歳旦帳を編集す。宰鳥と蕪村とを併用した。
同年(一七四〇)初夏のころ?  蕪村は奥羽旅行を終え、結城の雁宕宅に宿っていた来合せた常磐潭北と仙台の埋れ木のことがある。
同年(一七四〇)七月三日 下野烏山の常磐潭北が死去した。享年六十八歳。雁宕の父我尚と俳友で、雁宕と蕪村と共にゆかり深かった。 

延享二(一七四五)年正月二八日 早見晋我(北寿)が死去した。享年七十五歳。蕪村は晋我の死を哀惜し、追悼曲「北寿老仙をいたむ」を作った。明治新体詩の祖源をなすもので、わが文学史上に新視野を開いた。
同年(一七四五)五月四日   雁宕の妹いね(稲)が死去した。「香顔芳薫大柿」。中村大済の妻。
同年(一七四五)十月十三日   俳人望月宋屋が奥羽旅行出向途上に結城へ釆て、雁宕、大済、宰鳥に連状を送った。結城一同は不在であった。

延享三年(一七四六)十月十八日  宋屋が奥羽旅行の帰途結城に再び訪れ雁宕と逢った  蕪村は不在で更に下館にも逢えなかった。

寛延元年(一七四八)十二月二十五日(延享五年七月十二日改元) 雁宕の母が死去した。「定誉澄阿映心大柿」。

宝暦元年(一七五一)(寛延四年十月二十七日改元)秋  雁宕は蕪村の西帰送別宴に餞けした 。
同年(一七五一)九月二十日  雁宕は常野地方の俳友を訪い吟行し宇都宮の佐藤露鳩の許に至り越年した。紀行文「雫の森」がある。

宝暦二年(一七五二)九月  雁宕は下総の境町・籍島阿誰と共に「反古衾」を編集した。

宝暦四年(一七五四)六月 雁宕は箱島阿誰、中村大済と共に「夜半亭発句集」を編集した。

宝暦八年(一七五八)六月六日 京都夜半亭一門が営行の旧師宋阿十七回忌に上京し参列する。
同年(一七五八)七月二十六日 雁宕の妹婿・中村大済が死去した。「節巌雄靖居士」。

宝暦十年(一七六〇)夏 雁宕は芭蕉翁の奥の細道を慕い奥羽旅行の途に就いた。

明和元年(一七六四)九月二十五日(宝暦十四年六月二日改元) 雁宕は羽後の象潟に到着した。
同年(一七六四)十二月十五日ごろ  雁宕は陸奥の弘前にいたらしい。

明和二年(一七六五)盆ごろ     雁宕は金成にいたようである。
同年(一七六五) 秋          雁宕は萩の名所宮城野に清遊した。
                      仙台の高野百里遺跡茅風庵に仮道場を開いた。
明和四年(一七六七)五月      雁宕は茅風庵道場を閉鎖した。
         夏            雁宕は行旅十年ぶりに結城へ帰った。

明和八年(一七七一)五月      雁宕は大島蓼太の「雪おろし」に対して自著「蓼摺
古義」を以て俳論を開始した。わが国の三大俳論の一である。

安永元年(一七七二)十二月十五日(明和八年十一月十六日改元) 雁宕の俳友・箱島阿誰が死去した。享年六十二歳。「雅高梁能易道保居士」。

安永二年(一七七三)七月三十日 砂岡雁宕は死去した。「高誉雁宕堅樹居士」。

天明三年(一七八三)十二月二十五日 与謝蕪村が死去した。享年六十八歳。

天明五年(一七八五)七月三十日 雁宕十三回忌法要が営まれ追悼句集「たまつり易雄編」刊行。編集・ 冨高武雄。

 砂岡雁宕の生年などは不詳である。『故砂岡雁宕について(雁宕句碑建立委員会)』によると、「元禄末年」として、元禄年間(一六八八~一七〇三)を表示しつつ、「雁宕生まれた」としている。この元禄末年(十六年=一七〇三)とすると、巴人は二十八歳、そして、潭北は、二十七歳となり、雁宕と巴人・潭北とは、それだけの年齢差があるということになる。そして、雁宕の父の我尚は、享保六年(一七二一)に享年三十九歳で亡くなっており、逆算すると天和二年(一六八二)の生まれということになる。
 先に(その五)、巴人・潭北・我尚の「江戸川三吟」について触れたが、我尚は、巴人・潭北よりも七歳程度年下ということになる。また、我尚が亡くなったとき、雁宕は、二十歳に満たない、十八歳前後ということになる。
 享保十二年(一七二七)の『綾錦』(菊岡沾涼編)によると、俳諧宗匠として「潭北・我尚・周午(雁宕)」の名が見られ、雁宕(周午)は、若干、二十四歳の頃にして、我尚の名跡を継ぎ、結城俳壇の俳諧宗匠の一人に目せられていたということになる。
 上記の年譜を見ていくと、俳人・雁宕の生涯というのは、大きく、次の三期に分かられるようである。

第一期[元禄末年(一七〇三)~享保十二年(一七二七)]

 享保十二年(一七二七)の雷堂こと高野百里の死は、雁宕にとって大きな節目の年であった。
百里は、享保俳諧の時代にあって、三大俳人の「巴人・百里・琴風」の一人と目せられていて、雁宕は、百里の「茅風庵」の庵号を継いでおり、雁宕俳諧に大きく影響を及ぼした俳人と言って過言でなかろう。この時期の俳号は、雁宕ではなく、その前身の周午の俳号ということであろうか。そして、百里の死などを契機として、周午から雁宕の号へと改号した雰囲気でなくもない。

第二期[享保二十一年(元文元年・一七三六)~宝暦元年(一七五一)(寛延四年十月二十七日改元)]

 元文元年(一七三六)には、雁宕は京に上り、「江戸俳壇革正の盟主に老師早野巴人を迎えるため」、「巴人に帰東を促す」という大きな節目の年である。これに呼応して、元文二年(一七三七)に、在京十年余の巴人は愛弟子の雁宕の懇請によって京都を」を後にして、江戸にと再帰することとなる。江戸の日本橋本石町に居所を定め、夜半亭を号した。翌、元文三年(一七三八)に、巴人は宗阿の号を宋阿と改号する。そして、その夜半亭宋阿の所に宰鳥(後の蕪村)が内弟子となって入門してくる。時に、蕪村は二十二歳であった。そして、この頃から、雁宕と蕪村との江戸そして結城・下館・宇都宮を中心とする、いわゆる、蕪村関東出遊時代の交遊関係がスタートとしたということであろう。そして、この蕪村の関東出遊時代は、宝暦元年(一七五一)(寛延四年十月二十七日改元)に、蕪村が京に再帰することにより終焉することとなる。この蕪村が京に再帰するときの。 雁宕の蕪村への餞別の辞が、雁宕らが編んだ『夜半亭発句帖』の蕪村の「跋」文のなかに、明瞭に今に遺されている。

http://blogs.yahoo.co.jp/seisei14/59567727.html

[(『夜半亭発句帖(宝暦五年刊)』所収「跋」、宝暦四年推定) 
阿師没する後、しばらくかの空室に坐し、遺稿を探(さぐり)て、一羽烏といふ文作らんとせしも、いたづらにして歴行する事十年の后(のち)、飄々(ひょうひょう)として西に去(さら)んとする時、雁宕が離別の辞に曰(いわ)く、再会興宴の月に芋を喰(くう)事を期せず、倶(とも)に乾坤(けんこん)を吸(すう)べきと、其(その)言をよしとして、翅書(ししょ)さへまめやかにせざりしに、ことし追悼編集の事告(つげ)来(きた)るにぞ、さすがに涙もろく、斎団扇(ときうちわ)の上に酬書(しゅうしょ)し侍る。跋とすやしらず、捨(すつ)るやしらず。 釈蕪村 ]

第三期[宝暦二年(一七五二)~安永二年(一七七三) ]

 蕪村が京に再帰した宝暦元年(一七五一)に、雁宕は常野総(茨城・群馬・下野・千葉の一部)地方を吟遊し、その紀行文を『雫の森』として上梓する。続く、宝暦二年(一七五二)に箱島阿誰と共編して『反古衾』を、さらに、宝暦四年(一七五四)には、早野巴人十三回忌として『夜半亭発句帖』を箱島阿誰・中村大済と共編し、世に問うこととなる。
 これらの、今に遺る編著の上梓の後、宝暦八年(一七五八)には、京都夜半亭一門が営行の旧師宋阿十七回忌に上京し参列する。また、宝暦十年(一七六〇)に、芭蕉翁らの奥の細道を慕い奥羽行脚を決行して、明和二年(一七六五)の頃まで、奥羽各地を巡遊し、仙台の高野百里遺跡茅風庵に俳諧仮道場を開き、高野百里の俳諧を継嗣することとなる。そして、その茅風庵を明和四年(一七六七)に閉じて、京都巡遊を含めると十年余の行旅の果てに、結城に帰ってくる。まさに、西行・芭蕉・巴人・百里・潭北らに連なる漂泊の詩人という趣である。
 そして、雁宕の最後の業績は、明和八年(一七七一)に始まる、江戸俳壇の巨匠・大島蓼太との俳諧論争である。この俳諧論争は、延享二年(一七四七)の『江戸廿歌仙』に対し、蓼太が『雪おろし』を出して非難を加えたことに端緒がある。これに対して、第三者の立場に位置する雁宕は、『蓼摺古義』を刊行して反駁した。蓼太らは『遅八刻』を以て応戦する。続けて、蓼太側から『うつけ猿』を上梓したのに憤慨して、『俳諧三十棒』を出し、明和九年(一七七二)には『一字般若』を以て酬いるというように、当時の俳諧論争史上に大きな話題を提供したのである。結城の砂岡雁宕という俳人は、天明俳諧の中心的俳人の与謝蕪村の、その若き日の関東出遊時代を支えた人物として夙に知られているところであるが、単に、蕪村との関係だけではなく、享保俳諧、 そして、それに続く、天明俳諧の、その一躍を担った俳人として、忘れ得ざる俳人ということになる。砂岡雁宕が結城の地に没したのは、安永二年(一七七三)であるが、京都にあって、五十八歳の老境期を迎えた与謝蕪村は、夜半亭一世宋阿(早野巴人)の後を嗣ぎ、夜半亭二世を襲名していた。そして、いみじくも、この雁宕が亡くなった年に、「雁宕久しくおとづれせざりければ」との前書きを付しての次の一句を今に伝えている。

○ 有(あり)と見えて扇の裏絵おぼつかな    蕪村

(句意=何か描いてあるように見えてはっきりしない古い扇の裏絵のごとく、久しく会わない雁宕先達は、今頃どうしておられるのだろうか。雁宕と共にあった昔のことが思い出されてならない。)
# by yahantei | 2009-07-18 16:25 | 其角と蕪村
蕪村の『新花摘』の挿絵周辺(その六)

二 潭北の『今の月日』に登場する結城の俳人

 潭北の『今の月日』の中で、「春の部」・「冬の部」に収載されている結城の俳人の句は次のとおりである。


春の部


○ 山坊のひろき垣根や花の雲    結城   晋我
○ 雉啼やあっぱれ男柄かしら    ユウキ  杏坡
○ 名物の菓子へも覗く椿かな         周午
○ 庭さくら献上物の下地かぜ         丁雅


冬の部・歳末


○ 石蕗さくや引立襟の初瀬いぢり  ユウキ  手吹
○ 菊園の杖をかぐものしぐれ哉        北竹
○ つられ女やつられ男も年忘れ        周午
○ こきまぜる節季候あたまも柳かな      丁雅


 上記の俳人のうちで、晋我は、早見晋我で、晋我は結城で代々酒造業を営む素卦家で、通稱を早見治郎左衛門と云い、俳諧は其角の門下で、其角の没後、我
尚の師筋の佐保介我に師事したという。晋我は結城俳壇の主要メンバーの一人で、蕪村のよき理解者だったが、延享二年(一七四五)に七十五才でこの世を 去った。晋我は我尚の義兄弟で、雁宕の叔父にあたる。蕪村の名高い俳詩「北寿老仙をいたむ」は、別名、「晋我追悼曲」で、この早見晋我に捧げられたもの
として夙に知られているところである。
 参考までに、ここに、蕪村の「北寿老仙をいたむ」を掲載しておきたい。


 北寿老仙をいたむ(晋我追悼曲)  与謝蕪村
(晋我五十回忌追善『いそのはな』)


  君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に
  何ぞはるかなる
  君をおもふて岡のべに行つ遊ぶ
  をかのべ何ぞかくかなしき
  蒲公の黄に薺(なづな)のしろう咲たる
  見る人ぞなき
  雉子(きゞす)のあるかひたなきに鳴を聞(きけ)ば
  友ありき河をへだてゝ住(すみ)にき
  へげのけぶりのぱと打ちれば西吹風(にしふくかぜ)の
  はげしくて小竹原真すげはら
  のがるべきかたぞなき
  友ありき河をへだてゝ住にきけふは
  ほろゝともなかぬ
  君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に
  何ぞはるかなる
  我庵(わがいほ)のあみだ仏ともし火もものせず
  花もまゐらせずすごすごと彳(たゝず)める今宵は
  ことにたふとき


 さて、晋我に続く、杏坡そして手吹・北竹については不詳であるが、丁雅は我尚の娘婿で、自笑斉とも号し、俳諧のほか画もよくして、『今の月日』には 「丁雅画」のものが収載されている。結城浦町で酒造業を営み名主を勤めた人物で、延享四年(一七四七)の結城町酒造家の講である「松尾講」に中里内蔵とあるのは丁雅時代の屋号であろうという。その没年は、寛延二年(一七四九)で、享年四十九歳という(『結城市史』)。
 潭北の編んだ『今の月日』には、八葉の画賛が収載されているが、その賛(俳句)は、「我尚・潭北・丁雅・周午」のものである。そして、その画のうち四 葉が、丁雅のもので、落款と印(白文印)が押されており、もう四葉は、周午のもので、こちらは落款と花押の体裁となっている。
 この周午は、我尚の子で、『今の月日』では、「孝子(注・子)愛婿(注・婿)共に行涙を押へて」として、丁雅と並んで、次の二句が収載されている。


○ 有様の起てはふしぬ芦の花       周午
○ 包んでも梨はたもつを人の上  中里氏 丁雅


 さて、この周午なのであるが、『結城市史』では、結城俳人のうちで最も著名な、我尚の子の砂岡雁宕と兄弟で、「周午と雁宕ではどちらが兄なのか」・ 「今のところ断定する根拠はない」としている。
 この周午については、潭北を江戸座の有力宗匠として紹介している『綾錦』(菊池沾涼編)では、「他国宗匠大略」(『綾錦』下巻)の中で次のように記されている。


介我・・・門人我尚・・・・・・現周午
  砂岡氏総州結城在  同苗長子同所


 これからすると、我尚も周午も「総州結城」の宗匠格の俳人ということになる。そして、周午は我尚の「長子」ということになる。この『綾錦』の記述から すると、周午が長子で雁宕はその弟ということになるのかも知れない。
 ところが、厄介なことに、雁宕著の『蓼すり古義』(明和八年刊)では、その跋文に「小弟周午 小子進馬」との記載があり、この「小弟周午」ということ を文字通り「弟」と解すると、雁宕が兄で、周午は弟ということになる。『結城市史』では、「小弟」の「弟」には「男子の謙称」の意もあり、「両者の間柄は不明」という立場である。
 そもそも、一番の謎めいているのは、父にあたる我尚の追善集ともいえる『今の月日』に、その亡き父我尚の子息の一人して、結城俳壇で最も著名な俳人の 一人の雁宕の名が何処にも見出されないということなのである。
 この一番謎めいていることに焦点を合わせると、『今の月日』で、「孝子愛婿共に行涙を押へて」と前書きを付して紹介されている、「孝子・周午」と「愛 婿・丁雅」の、この「孝子・周午」とは、雁宕の前号なのではなかろうかという思いが第一感なのである。
 この「周午=雁宕の前号」と解すると、『綾錦』の「他国宗匠大略」での「我尚・周午」の記述も、『今の月日』を始め、結城関連俳書(『結城市史』に紹 介されている)に出てくる「周午(「周互」の記述もある)」も、全て、雁宕のものとして、全てが納得できるものとなってくる。
 ただ一つ、雁宕著の俳諧論書として名高い『蓼すり古義』に出て来る、「小弟周午」の「小弟」の二字が、どうにも謎めいているのだが、この『蓼すり古義』は、『江戸二十歌仙』を非難した大島蓼太の『雪おろし』に対する反駁書で、「この書は元来宝暦初年に筆を執ったものであるが、その後世に流布するものの誤脱が多いので、雁宕の子沖翼が新たに刪定して梓行しようとしたが果さずして没した。よってその弟周午と子進歩とが志をついで、明和八年五月に至り 始めて上梓した」(『潁原退蔵著作集四』所収「続俳諧論戦史」)と、雁宕の子沖翼の「小弟周午」(雁宕の前号「周午」を継号したとも解せられる)との理解も可能であろう。
 また、『俳諧大辞典(昭和三十二年刊・明治書院)』の「砂岡雁宕」(丸山一彦稿)には記載はないのだが、『俳文学大辞典(平成七年刊・角川書店)』の 『砂岡雁宕』(清登典子稿)に至って「前号、周午」の一項が入ってきており、『今の月日』(潭北編)、そして、『綾錦』(沾涼編)に出てくる「周午」 は、雁宕の前号と解しておきたい(『結城市史』における雁宕と周午に関する記述は、若干の補正が必要になってくるように思われる)。
 なお、これらの雁宕に関することについては、別稿で再述することといたしたい。

# by yahantei | 2009-07-15 18:27 | 其角と蕪村
蕪村の『新花摘』の挿絵周辺(その六)

二 潭北の『今の月日』に登場する結城の俳人

 潭北の『今の月日』の中で、「春の部」・「冬の部」に収載されている結城の俳人の句は次のとおりである。

春の部

○ 山坊のひろき垣根や花の雲    結城   晋我
○ 雉啼やあっぱれ男柄かしら    ユウキ  杏坡
○ 名物の菓子へも覗く椿かな         周午
○ 庭さくら献上物の下地かぜ         丁雅

冬の部・歳末

○ 石蕗さくや引立襟の初瀬いぢり  ユウキ  手吹
○ 菊園の杖をかぐものしぐれ哉        北竹
○ つられ女やつられ男も年忘れ        周午
○ こきまぜる節季候あたまも柳かな      丁雅

 上記の俳人のうちで、晋我は、早見晋我で、晋我は結城で代々酒造業を営む素卦家で、通稱を早見治郎左衛門と云い、俳諧は其角の門下で、其角の没後、我尚の師筋の佐保介我に師事したという。晋我は結城俳壇の主要メンバーの一人で、蕪村のよき理解者だったが、延享二年(一七四五)に七十五才でこの世を去った。晋我は我尚の義兄弟で、雁宕の叔父にあたる。蕪村の名高い俳詩「北寿老仙をいたむ」は、別名、「晋我追悼曲」で、この早見晋我に捧げられたものとして夙に知られているところである。
 参考までに、ここに、蕪村の「北寿老仙をいたむ」を掲載しておきたい。

 北寿老仙をいたむ(晋我追悼曲)  与謝蕪村
(晋我五十回忌追善『いそのはな』)
 
  君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に
  何ぞはるかなる
  君をおもふて岡のべに行つ遊ぶ
  をかのべ何ぞかくかなしき
  蒲公の黄に薺(なづな)のしろう咲たる
  見る人ぞなき
  雉子(きゞす)のあるかひたなきに鳴を聞(きけ)ば
  友ありき河をへだてゝ住(すみ)にき
  へげのけぶりのぱと打ちれば西吹風(にしふくかぜ)の
  はげしくて小竹原真すげはら
  のがるべきかたぞなき
  友ありき河をへだてゝ住にきけふは
  ほろゝともなかぬ
  君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に
  何ぞはるかなる
  我庵(わがいほ)のあみだ仏ともし火もものせず
  花もまゐらせずすごすごと彳(たゝず)める今宵は
  ことにたふとき
   
 さて、晋我に続く、杏坡そして手吹・北竹については不詳であるが、丁雅は我尚の娘婿で、自笑斉とも号し、俳諧のほか画もよくして、『今の月日』には「丁雅画」のものが収載されている。結城浦町で酒造業を営み名主を勤めた人物で、延享四年(一七四七)の結城町酒造家の講である「松尾講」に中里内蔵とあるのは丁雅時代の屋号であろうという。その没年は、寛延二年(一七四九)で、享年四十九歳という(『結城市史』)。
 潭北の編んだ『今の月日』には、八葉の画賛が収載されているが、その賛(俳句)は、「我尚・潭北・丁雅・周午」のものである。そして、その画のうち四葉が、丁雅のもので、落款と印(白文印)が押されており、もう四葉は、周午のもので、こちらは落款と花押の体裁となっている。
 この周午は、我尚の子で、『今の月日』では、「孝子(注・子)愛婿(注・婿)共に行涙を押へて」として、丁雅と並んで、次の二句が収載されている。

○ 有様の起てはふしぬ芦の花         周午
○ 包んでも梨はたもつを人の上  中里氏 丁雅

 さて、この周午なのであるが、『結城市史』では、結城俳人のうちで最も著名な、我尚の子の砂岡雁宕と兄弟で、「周午と雁宕ではどちらが兄なのか」・「今のところ断定する根拠はない」としている。
 この周午については、潭北を江戸座の有力宗匠として紹介している『綾錦』(菊池沾涼編)では、「他国宗匠大略」(『綾錦』下巻)の中で次のように記されている。

介我・・・門人我尚・・・・・・・現周午
   砂岡氏総州結城在  同苗長子同所

 これからすると、我尚も周午も「総州結城」の宗匠格の俳人ということになる。そして、周午は我尚の「長子」ということになる。この『綾錦』の記述からすると、周午が長子で雁宕はその弟ということになるのかも知れない。
 ところが、厄介なことに、雁宕著の『蓼すり古義』(明和八年刊)では、その跋文に「小弟周午 小子進馬」との記載があり、この「小弟周午」ということを文字通り「弟」と解すると、雁宕が兄で、周午は弟ということになる。『結城市史』では、「小弟」の「弟」には「男子の謙称」の意もあり、「両者の間柄は不明」という立場である。
 そもそも、一番の謎めいているのは、父にあたる我尚の追善集ともいえる『今の月日』に、その亡き父我尚の子息の一人して、結城俳壇で最も著名な俳人の一人の雁宕の名が何処にも見出されないということなのである。
 この一番謎めいていることに焦点を合わせると、『今の月日』で、「孝子愛婿共に行涙を押へて」と前書きを付して紹介されている、「孝子・周午」と「愛婿・丁雅」の、この「孝子・周午」とは、雁宕の前号なのではなかろうかという思いが第一感なのである。
 この「周午=雁宕の前号」と解すると、『綾錦』の「他国宗匠大略」での「我尚・周午」の記述も、『今の月日』を始め、結城関連俳書(『結城市史』に紹介されている)に出てくる「周午(「周互」の記述もある)」も、全て、雁宕のものとして、全てが納得できるものとなってくる。
 ただ一つ、雁宕著の俳諧論書として名高い『蓼すり古義』に出て来る、「小弟周午」の「小弟」の二字が、どうにも謎めいているのだが、この『蓼すり古義』は、『江戸二十歌仙』を非難した大島蓼太の『雪おろし』に対する反駁書で、「この書は元来宝暦初年に筆を執ったものであるが、その後世に流布するものの誤脱が多いので、雁宕の子沖翼が新たに刪定して梓行しようとしたが果さずして没した。よってその弟周午と子進歩とが志をついで、明和八年五月に至り始めて上梓した」(『潁原退蔵著作集四』所収「続俳諧論戦史」)と、雁宕の子沖翼の「小弟周午」(雁宕の前号「周午」を継号したとも解せられる)との理解も可能であろう。
 また、『俳諧大辞典(昭和三十二年刊・明治書院)』の「砂岡雁宕」(丸山一彦稿)には記載はないのだが、『俳文学大辞典(平成七年刊・角川書店)』の『砂岡雁宕』(清登典子稿)に至って「前号、周午」の一項が入ってきており、『今の月日』(潭北編)、そして、『綾錦』(沾涼編)に出てくる「周午」は、雁宕の前号と解しておきたい(『結城市史』における雁宕と周午に関する記述は、若干の補正が必要になってくるように思われる)。
 なお、これらの雁宕に関することについては、別稿で再述することといたしたい。

# by yahantei | 2009-07-14 15:38 | 其角と蕪村
蕪村の『新花摘』の挿絵周辺(その五)

 蕪村の『新花摘』の呉春の挿絵四図は、結城の俳人丈羽の別荘図のものである。

http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf26f.html

 この結城の俳人の丈羽については詳細不明であるが、蕪村の初撰集の『寛保四年宇都宮歳旦帖』にも登場してくる。

○ 鶯や猿も眠たく老(おい)けりな  丈羽  

 この丈羽は、おそらく、当時の結城俳壇の中心的な人物の砂岡我尚に連なる俳人の一人なのであろう。我尚については、『綾錦』(菊岡沾涼編)の下巻に、介我門の俳人として登場してくる。この介我(佐保氏)は其角に近い俳人で、巴人、潭北、そして、我尚の三人は、其角・介我門として、親密な関係にあったのであろう。
 ここで、常磐潭北の『今の月日』に登場してくる、砂岡我尚と結城の俳人達について触れておくこととする。

一 結城俳壇と砂岡我尚など

 常磐潭北が編んだ『今の月日』(別名『後の月日』・享保七年刊)は、結城俳壇の中心的俳人・砂岡我尚への追善集という性格も有している。我尚は、享保六年(一七二一)九月七日に、三十九歳で亡くなった。逆算すると天保二年(一六八二)の頃の誕生である。
 我尚の父は、砂岡宗春(宝永二年没・本名、三右衛門)といい、『結城市史』によると、『桜川』(延宝二年刊)・『松島眺望集』(天和二年刊)などにその名が見られる豪商(醤油醸造・販売業)で、且つ、当時の結城の著名俳人であった。
 その宗春の遺書が今に遺されており、それによると、当時の結城の名門の、「砂岡・早見・中里・和久井」家などは縁戚関係にあり、その遺書の中に、早見晋我(酒造業、本名・次郎左衛門)、そして、砂岡我尚(本名・仙右衛門)の名が見られる(『結城市史』)。
 ちなみに、栃木県鹿沼市の嶋田家より砂岡家に婿に入った方が、勘右衛門といい、その遺書の連判状記載の四人のうちの一人となっている。この鹿沼の嶋田家は、もと壬生氏の家臣で家老職にあり、壬生氏が小田原の北条氏と命運を共にして滅びた後、鹿沼に土着して、代官職にあり、家業は酒造業を営んでいたという。
さらに、この勘右衛門の弟に瀬兵衛という者があり、これが鹿沼市の大谷家に婿入りして、その瀬兵衛の娘の一人が砂岡雁宕の妻となり、後に離縁になっているという(『結城市史』)。
こうして、結城の砂岡家の系譜を辿って行くと、後の寛保四年(一七四四)に、与謝蕪村が宇都宮の佐藤露鳩邸において『寛保四年宇都宮歳旦帖』を編むが、その宇都宮俳壇の中心的な俳人の一人の、砂岡雁宕の女婿といわれている佐藤露鳩は、この鹿沼の嶋田家とか大谷家とかと、何らかの関係を有しているような雰囲気でなくもない。
ここで、『今の月日』の我尚の作品を見てみると次のとおりである。

一 潭北と我尚との両吟歌仙
二 巴人・潭北と我尚の三吟歌仙=江戸川三吟
三 発句(八句)

○1 よめで居て青表紙也門錺(かざり)
○2 梅白し筵にも飛ぶ膾(なます)の子
○3 いさしらぬ汐干の泥や鼻ばしら
○4 青柳や楼(たかどの)の中へこきまぜる
○5 若草やきのふ磁石の口をきる
○6 松茸は在〈る〉ものにして薪(たきぎ)折る
○7 牛の雪牛の行〈き〉あふあした哉
○8 行く水をまびるゝ物はかじか哉

四 我尚の独吟歌仙

 なお、江戸川三吟については、次のとおりである。

江戸川三吟


一  やどり木の松と寝てけり草の種       巴人
二  もやひて澄〈め〉る宵の月の名       我尚
三  焼塩に鱸 を待〈ま〉 ははるかにて     潭北
四  ねぢてあんなる水引の端           人
五  下駄で出る箒の跡に竹若き          尚
六  手紙返して只今参上              北

七  しののめの波よりぬけて低い窓 人
八  ほれこまれては坊主にも成〈る〉   尚
九  匂ひをも炭をも作る大内山          北
十  いよいよ淋しこぼれたる針           人
十一 ふるまはぬ心の蕎麦の二三合       尚
十二 高き御城の伯母の行列            北
十三 半月の横町ふかきこも柱           北
十四 羽織まつ間の蔦に咳入            尚
十五 海士の子のたたみでこけるきりぎりす   人
十六 尾上の鐘の奉加ならぬに           北
十七 包丁目せゝるは花の向ふから        尚
十八 髪に春日の草履とり哉             人
ナオ
十九 尺八のあなおぼろなるよせ恨        北
二十 二枚の絵馬で叶〈ふ〉とはしれ        尚 
二一 屋根ふきがせしとは口にとじまりて     人
二二 けしの一夜を念比の露            人
二三 朝釣瓶真岡木綿をはね上〈げ〉る      尚
二四 比丘尼百首をさりとては寄セ         北
二五 ふるひ出す胡椒四五粒君が為       人
二六 桟敷の水へ帛 おしかけ            人
二七 神灯の暗い仕なしは昼寒い         北
二八 草にたはぶれ眠る槍持            尚
二九 町口に薪 を出し岑の月            尚
三〇 膳にはじくは残暑なるらん           北
ナウ
三一 弥陀たのむ桔梗かるかや女道        人
三二 袖からも透〈く〉 外科のふところ       人
三三 曇なきけふを乱間の入〈り〉はじめ      尚
三四 桐油に包み届く饅頭              尚
三五 花の坂新発意あたまをふりさけて      北
三六 げにげに社日( しゃにち) めづらしく飛ぶ  北

 この「江戸川三吟」の、巴人・潭北・我尚について、ここで再掲をしておきたい。

早野巴人(はやの/ はじん)延宝四年(一六七六年)~ 寛保二年(一七四二)六月六日。
与謝蕪村の師。のち夜半亭宋阿(やはんていそうあ)と改める。下野国那須郡烏山(現・栃木県那須烏山市)に生まれる。延宝五年(一六七七)の生まれの説もある。幼くして(九歳の頃)江戸に出て俳諧の道を志す。元禄二年(一六八九)松尾芭蕉の「奥の細道」の足跡を辿って旅をする。再び江戸に戻り、宝井其角、服部嵐雪の門人となり俳諧を学ぶ。享保十二年(一七二七)京都に移る。 元文二年(一七三七)砂岡雁宕の誘いにより江戸へ戻り、夜半亭を日本橋本石町に構える。この時に号を宋阿とする。この頃、江戸に出てきた与謝蕪村が門人となる。寛保二年六月六日夜半亭にて病没。享年六十七歳。辞世の句は「こしらへて有りとは知らず西の奧」である。

常盤潭北(ときわ/たんぽく)延宝五年( 一六七七)~延享元年(一七四四)。榎本其角(きかく)の門人。与謝蕪村(よさぶそん)ともしたしく、俳書に『汐越(しおこし)』『今の月日』(別称『後の月日』)など。医業に従事していたが、庶民教育を重視し、関東一円を講話してまわり、『民家分量記』(別称『百姓分量記』)などを出版した。延享元年七月三日死去。六十八歳。下野(しもつけ)(栃木県)出身。本姓は渡辺。名は貞尚。字(あざな)は尭民。別号に百華荘。

砂岡我尚(いさおか/がしよう)-砂岡雁宕の父。我尚の姉妹が早見晋我に嫁いでいる。〔下野俳諧史(中田亮著)〕

# by yahantei | 2009-07-11 08:06 | 其角と蕪村
蕪村の『新花摘』の挿絵周辺

(その四)

・・・・
松島のうらづたひして好風におもてをはらひ、外の浜(注・青森県の東岸で、謡曲「善知鳥(うとう)」の伝説で名高い)の旅寝に合浦(注・津軽地方の合浦)の玉のかへるさを忘れ、とざまかうざまとして、既三とせあまりの星霜をふりぬ
・・・・
松しまの天麟院は瑞巌寺と甍をならべて尊き大禅刹也。余(注・蕪村)、其寺に客たりける時、長老(注・禅寺で住持または和尚の敬称)古き板の尺余ばかりなるを余にあたへて曰、「仙台の太守中将何がし殿(注・伊達吉村)は、さうなき歌よみにておはせし。多くの人夫して名取河(注・陸奥国名取郡を流れる川)の水底を浚(さぐら)せ、とかくして埋れ木(注・名取川の名産)を堀もとめて、料紙、硯の箱にものし、それに宮城野(注・仙台の萩の名所、歌枕)の萩の軸つけたる筆を添て、二条家(注・和歌の家筋の一)へまゐらせられたり。これは其板の余りにて、おぼろけならぬもの也」とてたびぬ(注・下さった)。
・・・・
重さ十斤(一斤は六〇〇グラム)ばかりもあらん、それをひらづゝみして肩にひしと負ひつも、からうじて白石(注・宮城県白石市)の駅までもち出(いで)たり。長途の労れたゆべくもあらねば、其夜やどりたる旅舎のすの子(注・簀の子)の下に押やりてまうでぬ(帰ってきた)。
・・・・
そのゝちほどへて、結城の雁宕がもとにて潭北にかたりければ、潭北はらあしく(注・気短に)余を罵て曰、「やよ(注・やあ)、さばかりの奇物(注・珍品)うちすて置たるむくつけ(注・無風流)法師よ、其物我レ得てん、人やある(注・誰かいないか)、ただゆけ」と須賀川(注・福島県須賀川市)の晋流(注・須賀川の本陣・藤井半左衛門の俳号。其角門)がもとに告やりたり。
・・・・
駅亭(注・宿屋)のあるじかしこく(注・幸いに)さがし得てあたへければ、得て(注・受け取って)かへりぬ。後、雁宕(潭北から雁宕へ)つたへて「漁鶴」といへる硯の蓋にしてもてり。結城より白石までは七十里余ありて、ことに日数もへだたりぬるに、得てかへりたる、けうの事也(注・非常に珍しいことだ)。
・・・・

 蕪村の『新花摘』の「奥の細道行脚」と「名取河の埋れ木」に関する挿話の記述である。この蕪村の「奥の細道」行脚がどういうコースを辿ったかは定かではない。『新花摘』に登場する人物などから想定すると、次のようなコースが浮かび上がってくる。

下館(中村風篁・阿満・三老媼)→結城(砂岡雁宕・丈羽・晋我)→宇都宮(「宇都宮歳旦帖」・佐藤露鳩)→烏山・佐久山(常磐潭北)→芦野(「遊行柳」)→白河(城主松平大和守家臣・秋本五兵衛=俳号・酔月)→須賀川(藤井半左衛門=俳号・晋流)→米沢→羽黒山→酒田→象潟→九十九袋(現・秋田県衣叉袋)→外ケ浜(現・青森県津軽半島東岸)→平泉→松島(天麟院)→白石→須賀川→白河→宇都宮→結城→宇都宮(「宇都宮歳旦帖」を編む)

 これらの蕪村の旅を支援したその中心的人物は、やはり潭北と推定して差し支えないであろう。潭北は享保元年(一七一六)に祇空と一緒に『おくの細道』の足跡を辿って奥羽地方を行脚して、その翌年に祇空はその折りの紀行文・餞別句を編集して『烏糸欄』を刊行した。また、潭北も旅の終わったその年(享保元年)に『潮越』を刊行している。この祇空と潭北の行脚のコースは、『下野俳諧史(中田亮著)』によると、次のとおりとなる。

江戸(四月三日・祇空出立)→結城(我尚亭で潭北・晋我と合同)→筑波→下野各地(四月十一日・室の八嶋・壬生・鹿沼→十三日・大谷観音→十四日・鹿沼・今市・日光→十五日・東照宮→十六日・華厳の滝・中禅寺湖→十七日・東照宮祭礼行列→十八日・宇都宮=晋我と別れる→烏山→黒羽→二十九日・遊行柳・那須殺生石→白河→福島→仙台→松島→平泉→尾花沢→象潟→羽黒山→山形→平→結城=潭北と分かれる→九月十三日・江戸)

さらに、潭北の『潮越』の歌仙などの連衆を見ていくと、蕪村の『新花摘』に出てくる秋田藩の重臣・梅津半右衛門こと俳人・其雫(先にその三で紹介)の他に、大名俳人として名高い「冠里・露沾」の名を見ることができる(なお、ネット情報での紹介記事を併記しておく)。

冠里[安藤信友 あんどう‐-のぶとも 1671‐1732 江戸時代前期-中期の大名。寛文11年生まれ。安藤重博の長男。元禄(げんろく)11年父の跡をつぎ、備中(びっちゅう)(岡山県)松山藩主安藤家2代となり、奏者番、寺社奉行をつとめる。宝永8年美濃(みの)(岐阜県)に移封(いほう)、加納藩主安藤家初代となる。6万5000石。大坂城代から享保(きょうほう)7年老中。俳諧(はいかい)をよくし、榎本其角(えのもと‐きかく)に入門、冠里(かんり)と号した。享保17年7月25日死去。62歳。初名は重興、重行、信賢。通称は政蔵。
【格言など】雪の日やあれも人の子樽拾ひ  ]

露沾[先にその一で紹介。なお追記として、号は傍池堂・遊園堂。西山宗因門弟。後に江戸俳壇を仕切った沾徳は露沾の弟子。蕉門中最も身分の高い人であった。]

 また、その連衆などの国名を見ていくと、「秋田・秋田湊・亀田=秋田県亀田・仙北横手=秋田県横手・羽黒山・仙台・岩城=福島県岩城」など、祇空と潭北との、この奥羽行脚に深く関係する土地の俳人の名が多く記されている。

 これらを見ていくと、祇空と潭北との奥羽行脚は、芭蕉・其角に深く繋がる当時の大名俳人として名高い冠里や露沾、そして、赤穂浪士事件とも関係の深い秋田藩の重臣・其雫らのネットワークを背景として為されたものという構図が浮かび上がってくる。そして、それは、いみじくも、蕪村が誕生した享保元年の行脚でもあった。

 それから二十七年後の寛保二年(一七四二)、蕪村は六十六歳の最晩年の潭北の紹介状などを携えながら、潭北らの辿った奥羽行脚を、潭北らのネットワークを背景として単独行したということになろう。そういう背景下において、始めて、松島の「天麟院」の「其寺に客たりける」や「仙台の太守中将何がし殿(の)名取河(の)埋れ木(の) 其板の余り(を蕪村に与えた)」などの記述が可能となってくるのであろう。
 ここで、蕪村が『新花摘』に記したこれらのことに関してのネットでの紹介記事などを付記しておきたい。

(松島・天麟院)

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Icho/7609/miti-tenrin.html

日本三景として名高い松島にある。伊達政宗の長女五郎八姫の菩提所瑞巌寺の南側にあり、瑞巌寺を参拝したその足でいける距離にある。お寺自体は、綺麗に整備されており、境内には五郎八観音なる石仏も建立されている。五郎八姫の墓所は、境内の裏手にある墓地の一角にあるが、仮堂らしい。墓所の裏手は、崖になっており、石窟墓所があって、すこし淋しげである。五郎八姫は、伊達政宗の長女として正室愛姫の子として生まれた。のちに徳川家康の子、松平忠輝の嫁として迎えられるが、忠輝の不行状を咎められ、改易となり、五郎八姫は離縁される。離縁ののちは、仙台に引き取られ、その余生の地となる。政宗死後も忠宗に面倒を見られ、仙台に没した。天麟院は落飾の後の五郎八姫の号である。墓所は東を向いて建てられ、松島の海を見続けている。

(名取川・埋木)

http://www.mgu.ac.jp/~sawai/96D11page.html

名取川は、宮城県と山形県の二口峠付近に源を発し、秋保温泉郷を経て、熊堂の北側を流れ、仙台市長町の南東で広瀬川と合流し、名取市閖上で太平洋に注いでいる。古来より歌枕として歌われた川であり、『古今和歌集』で「みちのくにありといふなるなとり川なきなとりてはくるしかりけり」と壬生忠岑が詠んでいるのは有名である。また、「名とり川せぜのうもれぎあらはればいかにせんとかあひみそめけん」(『古今集』)の歌のように、「埋木」が縁語的に用いられ、秘事が顕われるとか、名が埋もれるとなど、比喩的な意味を含めて後世多くの類歌を生んだ。

(宮城野・萩)

http://www.stks.city.sendai.jp/sgks/WebPages/miyaginoku/06/06-02.htm

宮城野萩については、平安初期一千年以上も前から数多くの歌が、詠まれていました。そのうちのひとつとして、「宮城野の本荒の小萩露をおもみ 風をまつこと君をこそまて」という歌があります。これが、宮城野萩の文献に現れた最初のことです。萩は、「古今集」の流布と共に宮城野の名物として人々に知られ、幾多の和歌がつくられました。橘為仲が、陸奥守の任が終わり京へ帰るとき、宮城野萩を長櫃(ながびつ)に入れて、京へ着くとき花の盛りになるように持ち帰ったので、入京の日には、二条大路に数多くの人が集まり、さらに時の帝までもひそかに見物した、との文献も残っています。さらに時を経て、江戸時代には、奥の細道の中で芭蕉も「宮城野の萩茂りあひて秋の景色思ひやらるる」と記しています。また、仙台藩では宮城野原(生巣原)と呼ばれていたこの地を禁野とし、宮城野萩を保護し、君公が遊覧に出られたことが、「宮城野遊覧記」によって知られます。『古今集』に言う本荒の萩とは、根元部分が荒れていることから生じているらしい。とすれば本荒の萩は草萩の部類にあたるものと思われます。従って「仙台鹿の子」に『昔、宮城野の萩にて弓を打ち、鼓の胴を拵へたる、名物なり』とありますが、これに記される萩は、山萩の様です。
 
(追記その一)

 常磐潭北の『民家分量記』・『野総茗話』・『民家童蒙解』は、当時の評判の著書で、宝暦二年(一七五二)刊の伊藤単朴著『教訓雑長持』、天保二年(一八三一)刊の宮負定雄著『民家要術』を始め、近世の多くの教訓書に引用され、推奨されていたという(『栃木県史・通史編四・近世一』)。ネットの紹介記事として、「一橋大学研究年報. 社会学研究, 42: 111-173」所収「近世人の思想形成と書物 : 近世の政治常識と諸主体の形成」(若尾政希稿)の中でも、『民家分量記』が取り上げられ、越後国佐藤家文書の遺言書の中に、その名を見るという。さらに、「河内国柏原村三田家・摂津国南野村笹山家の蔵書にもあり、広く受容された書物である」と指摘している。そのアドレスと越後国佐藤家文書のところは、下記のとおりである。

http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/9507/1/HNshakai0004201110.pdf

(p124)

 『民家分量記』は『百姓分量記』ともいう。関東の俳人常磐潭北(栃木県烏山町善念寺に墓がある)の作で享保一一年(一七二六)初版の、百姓向けの教訓書である。佐藤家に
は、先の遺言書とは別に、佐藤八平が孫の喜太郎に与えた遺言書が伝えられている(「安永五年七月 祖父八平分家につき孫喜太郎へ遺言書」、佐藤家文書九〇三八)。そこには、次にあげたように、家督を相続するために、『民家分量記』を渡すから、この書物から学ぶようにと述べている。
  
高原分家二付八平祖父孫喜太郎へ
  被仰渡之事
                         
一 安永五年酉年七月下旬来ル八月中松五郎義新宅江屋移筈之所粗承リ候ヘバ、女親之申事本意二、ゾンスルヨシ。我存命ナレバ男之申事ヲ、本意ニイタスベシ。(中略)家督マンゾクノ、タメ民家分量記卜申書物其方へ相渡ス。此書ヲ能拝見イタスベシ。(下略)

(追記その二)

「松木淡々年譜稿(上)」(「俳文芸」第三十九号)に巴人の奉納した「烏山滝田天満宮八景句碑」に関わることと淡々(当時の俳号・渭北)の奥羽行脚とその歌仙興業の中に「烏山・黒羽・芦野」でのものが記されている。これらのことを抜粋すると次のとおりである。この淡々の奥羽行脚は、享保元年(一七一六)の祇空と潭北の奥羽行脚と同じような背景下において成されたもののように思われる。

元禄十五年(壬午)一七〇二       二十九歳(注・淡々)
春 巴人が烏山の滝田天満宮に、其角、嵐雪、渭北(注・淡々)らの烏山八景の句を奉納(安達太郎根・杖の上)(注・巴人奉納の「烏山八景句碑」は「その三」で触れている。)

元禄十七年・宝永元年(甲申)一七〇四  三十一歳(注・淡々)
○七月下旬、芭蕉の跡を慕い、奥羽行脚に出立。須賀川では等躬を訪ね唱和あり。二本松、松島を経て石の巻に至り、折り返して仙台、白石を経て岩城に入り、露沾と一座。年内に帰庵。各地で以下の俳筵を開く(安達太郎根)。
◇両吟半歌仙 斟斗・渭北(注・淡々)。(烏山にて)
◇唱和    一梭・渭北(注・淡々)。(芦野にて)
◇五吟歌仙  秋鴉・渭北(注・淡々)・斟斗・渭北(注・淡々)。(黒羽にて)
◇十吟歌仙  斟斗・渭北(注・淡々)・斟斗・渭北(注・淡々)。(烏山にて)

(追記その三)

 潭北の『潮越』の「序」は水間沾徳である。その「序」に「百花潭北医業のかたはらに月雪をあざなふ。烏山の黒きに住みて黒きにあらず」とあり、享和元年(一七一六)、潭北、四十歳の頃は、烏山に在住して、医業に従事していたことが分かる。松木淡々が奥羽行脚で烏山を訪れた元禄十七年(一七〇四)の当時、潭北は二十八歳の頃で、淡々の『安達太郎根』には、巴人の名は見られるが、潭北の名は見あたらない。しかし、その二年前の、元禄十五年(一七〇二)に、巴人は、烏山の滝田天満宮に、其角、嵐雪、渭北(注・淡々)らの烏山八景の句を奉納しているので、巴人と潭北とは幼なじみということで、この元禄十五年から十七年にかけて、潭北は、巴人の導きで、本格的に俳諧の道にも足を踏み入れたように思われるのである。後に、潭北は、享保七年(一七二二)、『今の月日』を刊行するが、そこで、大阪在住の松木淡々を訪ねた折りの記述と句が遺されており、淡々が烏山を訪れた元禄十七年当時に、淡々は、これまた、巴人などを介在して、潭北との出会いがあったように思われる。また、沾徳の『潮越』・「序」には、「破笠」(その二で触れた小川破笠)の名も見ることができ、後に、津軽藩に召し抱えられた「破笠細工」で名高い蕉門俳人・破笠もまた潭北らに繋がる俳人の一人に入れても差し支えないであろう。

(追記その四)

 潭北と奥羽行脚を決行した祇空、そして、巴人・潭北と親しい関係にある淡々は、芭蕉在世中に芭蕉と俳席を一緒にしており、いわば、其角・嵐雪とは兄弟弟子ということになる(祇空については『住吉物語』、そして、淡々については『其角十七回』などに記されているが、淡々が呂国の号で芭蕉の元にあったことは疑問視もされている)。祇空は、芭蕉亡き後、其角と親しい関係になり、其角亡き後は、『類柑子』に「晋子終焉記」を起草しており、蕉門にあっては、芭蕉そして其角に連なる正統な系譜者の一人といえるであろう。正徳四年(一七一四)、箱根草雲寺の宗祇の墓前で、それまでの「青流」の号を「祇空」と改号した折り、淡々は、「宗祇のしぐれ、芭蕉の宗祇、清流(注・祇空)の剃髪」と前書きを付与して、「世にふるもさらに祇空のやどり哉」の句を寄せている(『みかへり松』)。そして、『潁原退蔵著作集五』所収「祇空」では、その祇空改号に続き、「享保元年の卯月はじめ、『六とせ住なれし月影のさすや庵崎の有無庵』(烏糸欄)を引毀ち、野州烏山の人常磐潭北と共に奥羽に遊び、長月の頃江戸に帰った」と記述されている。これらの記述に接すると、祇空と潭北との奥羽行脚というのは、祇空にとっても、潭北にとっても、非常に大きな意義のある紀行であったことが察知される。同時に、それらの紀行・俳諧集の『烏糸欄』(祇空編)と『潮越』(潭北編)は、当時の俳諧史を知る上で、必須の極めて重要な位置にあることも教示してくれる。さらには、「祇空・潭北」と「淡々・巴人」そして「祇空・柳居」など、これらの「享保俳諧」の主要な俳人達が一線に繋がる、その鍵ともなるような、そういう位置付けにあるともいえるであろう。

(追記その五)

 祇空(享保十八年没、七十一歳)、巴人(寛保二年没、六十七歳)、潭北(延享元年没、六十八歳)、柳居(延享五年、五十四歳)、そして、淡々(宝暦十一年、八十八歳)が亡くなって、その宝暦十三年(一七六三)に、蕪村と親交のあった三宅嘯山が『俳諧古選』を刊行する。その「巻之五」に、「潭北が奥より帰りしを喜びて、同行祇空子に申し贈る」と前書きを付して、「古郷の子をかけて見よわれもこう(潭北 母)」との、潭北の母の一句が収載されている(「その三」で触れた)。このことから、享保元年(一七一六)当時、烏山在住の医業に従事していた潭北に母が生存していたことが分かる。当時の潭北には妻や子は居たのであろうか。それらに関する記述は今に遺されていない。蕪村初撰集の『寛保四年宇都宮歳旦帖』に収載されている「むめがゝ(か)や烏帽子着ぬ日の男ぶり」の作者の「松井田 潭考」の「潭考」が、潭北の息子だとの説もあるが(『蕪村の「宇都宮歳旦帖」読む(丸山一彦監修)』)、通説的な見解は息子ではなく門人ということである(『栃木県史・通史編四・近世一』など)。この潭考は、潭北十三回忌追善集『さざれ貝』、同三十三回忌追善集『野の菊』の編者でもある。なお、潭北の弟は、烏山と佐久山とに居たことが分かっている(『栃木県史』・前掲書)。また、『宇都宮歳旦帖』の潭北は、「佐久山 潭北」とあり、佐久山の弟の所に居住していて、そこで亡くなったと理解される(その三で触れた)。そして、『宇都宮歳旦帖』に前後して、潭北と関係の深い佐久山連に、「潭交・潭釣・潭梁」という俳人が居り(『俳諧茂々代草』)、この「佐久山連 潭交」が、「松井田 潭考」と同一人物であるならば、「潭考」は潭北の息子との理解も無くはない(その三で間接的に触れている)。

(追記その六)

 芭蕉は、「漂泊者の系譜」・「乞食(菰冠り)行脚僧」・「念仏僧の系譜」・「詫びつくしたるわび人」・「永遠の旅人」・「風雅僧」・「隠者」とか、さまざまなネーミングが冠されている(『芭蕉の本(六)漂泊の魂』)。祇空もまた、「一宿客」・「隠者・隠士」・「雲水」とか、その生涯は、芭蕉と同じく「漂泊者の系譜」に連なる俳人趣である(『潁原退蔵著作集五』・前掲書)。そして、潭北もまた、自ら「一所不在」ということを冠して、特に、その後半生は、まさに、各地を転々としての「漂泊者の系譜」の実践者という趣であった(『民家分量記』など)。しかし、芭蕉と祇空とが「世捨て人」としての「隠者・隠士」というネーミングが冠せられるのに比して、潭北には「庶民教化指導者」として、「隠者・隠士」とは逆に「剛毅(ごうき)」・「傲骨(ごうこつ)」の人として、「世直し指導者」の「名士」という風貌で、その点において、芭蕉・祇空とは一線を画している。また、ここに、潭北の特色があるように思えるのである。

(追記その七)

 享保元年(一七一六)の潭北の『潮越』は、水間沾徳の「序」に続いて、「生柱(いきばしら)」の二字が大きく且つ唐突に出てくる。そして、享保十八年(一七三三)の『野総茗話』・「巻三」の中で、「心柱(しんばしら)」・「虚人実人」という項を起こし、そこで、「心柱ある人ハ実人、心柱のなき人は虚人也、心柱は義なり。耻(はじ)をしる也」と強調している。この『潮越』の「生柱」と『野総茗話』の「心柱」とは、同一趣旨のもので、この潭北の価値観(心柱は義なり)は、潭北の生涯にわたって養われ、そして、実践されてきたところものと解せられるのである(その三で触れた)。そして、この「生柱」・「心柱」ということを、こと「俳諧」の中枢に据えようということが、その『潮越』に出てくる「生柱」の二字のように思えるのである。と同時に、芭蕉と同時代の鬼貫が「誠の俳諧」(「詞の俳諧ではなく心の俳諧に重きを置く」)ということを標榜したが、それと極めて近いものという思いを深くするのである。その意味において、鬼貫の俳諧を「誠(まこと)の俳諧」とするならば、潭北の俳諧は「義の俳諧・実(じつ)の俳諧」というネーミングも可能なのではなかろうか。

(追記その八)

 祇空の俳諧は「法師風」(俗に交わらない高潔な俳風)といわれるが、それはまた、祇空自身が剃髪して法体であったことをも指してのものであろう。潭北は、祇空との奥羽行脚などでは、旅の利便上のことで法体の装いをしていたのかも知れないが、潭北三十三回忌追善集『野の菊』の「潭北叟肖像」を見る限りでは剃髪しての法体ではない(この「叟」は「翁」と同意義であろう)。潭北の享保七年(一七二二)の『今の月日』では、「祇空、巴人は『心の芥(あくた)吐きつくして、跡(注・後)よりすらすらと出られるこそ泥に染まらぬ蓮(はちす)より潔い』と」記述されているが、それは、祇空の「法師風」(俗に交わらない高潔な俳風)と同一線上のものと理解できるであろう。この意味においては、潭北の「義の俳諧・実の俳諧」もまた、祇空の法師風」(俗に交わらない高潔な俳風)と軌を一にするものともいえるであろう。そして、享保俳諧の祇空・巴人・潭北の次の世代の天明俳諧の蕪村の「離俗論」(芭蕉の「高悟帰俗論=高く悟って俗に帰る=俗を離れながら俗に帰る」を基礎としての「俗を用いながら俗を離れる」)とも一脈通ずるものであろう。

(追記その九)

 秋田藩の重臣・梅津半右衛門こと俳人・其雫の「赤穂浪士吉良邸討ち入り」に際しての書状ならず日誌の一部が次のアドレスで見ることができる。この書状・日誌などは偽書が多く(『元禄の奇才宝井其角(田中善信著)』)、その真偽は定かではない。関係するところを下記に付記しておきたい。

http://www.pref.akita.lg.jp/www/contents/1144808186646/files/komonjokurabu022.pdf

三月十四日(元禄十三年) 天気よし

一 今酉(とり)の刻、大嶋小助より手紙参候(まいりそうろう)。今日於殿中(でんちゅうにおいて)、浅野内匠頭(たくみのかみ)殿吉良上野介(こうずけのすけ)を後より二太刀御討被成候(なされそうろう)。其節(そのせつ)其場に御留守居(るすい)御番梶川与惣兵衛(よそべえ)殿と申す衆御在合(ありあわせ)、内匠殿御討の小サ刀御取候由(よし)。上野介殿は残命にて屋敷へ引取、内匠殿は田村右京殿へ御預(おあずけ)の由。則戸田能登守(のとかみ)殿被仰付(おおせつけられ)、於御評定所(おひょうじょうしょにおいて)御詮議有之由(これあるよし)御座候。

同十五日天気よし
前略浅野内匠殿昨晩の内に切腹被仰付(おおせつけられ)候。吉良上野介殿へは、疵平癒次第前度の通り可相勤(あいつとむべく)の由被仰出候云々(おおせいでられそうろうんにん)。

(追記その十)

 蕪村は若い時から「画」が主で「俳諧」は従であった。蕪村の奥羽行脚は、祇空や潭北の奥羽行脚の俳諧修業ということに比して、単に、俳諧修業だけではなく絵画修業という面も有していたであろう。そして、庇護者の潭北から「義士大高源吾が秘蔵したる高麗の茶碗」を譲り受けるなどの記述は、そうした絵画創作の代償としてのものという理解も可能であろう。

# by yahantei | 2009-06-20 07:31 | 其角と蕪村
蕪村の『新花摘』の挿絵周辺

(その三)

ここで、蕪村の『新花摘』の赤穂浪士の大高源吾などに関することに触れて置きたい。

・・・・
常盤潭北が所持したる高麗の茶碗は、義士大高源吾が秘蔵したるものにて、すなはち源
吾よりつたへて又余(注・蕪村)にゆづりたり。
・・・・
 梅津半右衛門ノ尉(じょう)は、ある家のコヽウ(注・股肱)にて、難波の役(注・慶長十九年の大阪冬の陣)にも絶倫のはたらきありて感状を給り、名誉の家也。されば俸禄も一万石も領して、かの家の元老にて有けり。俳諧をこのみて、公務のいとま其角が門に遊びて、其雫(きてき)といへり。(中略) さて、次の段にて曰、「こたび何月某の日は、義士四十七士式家(注・高家の誤記か)の館を夜討して、亡君のうらみを報い、ねんなうこそ泉岳寺へ引とりたり。子葉・春帆など、ことに比類なきはたらき有たり。かの両士は此の日来、我几辺になれて、風流の壮士なれば、わけて意気感慨に堪ず」など、書きつゞけたり。
・・・・

 ここのところは、下記のアドレスの「其角年譜」で、次のように記されている箇所と一致する。

http://kikaku.boo.jp/nenpu
・・・・
元禄15(1702) 42歳 12月14日赤穂浪士吉良邸討入(12月20日付、梅津半右衛門宛其角書簡)
元禄16(1703) 43歳 2月4日赤穂浪士自刃「うぐひすにこの芥子酢は涙かな」
・・・・

そして、これらの、「其角と赤穂浪士」に関することは、先に、「其角とその周辺」ということで、触れてきたところである。

http://yahantei.blogspot.com/2007/03/blog-post.html
(謎解き・十四)(謎解き・十五)(謎解き・十六)(謎解き・十七)(謎解き・十八)
http://yahantei.blogspot.com/2007/03/blog-post_23.html
(謎解き・二十四)(謎解き・二十五)(謎解き・二十六)(謎解き・二十七)(謎解き・二十八)

 ここでは、そのうちの(謎解き・二十五)だけを再掲をして置きたい。

・・・・
(謎解き・二十五)
○ 初鰹江戸のからしは四季の汁  (子葉『二つ竹』)
○ なきあとも猶塩梅の芽独活哉  (沾徳『橋南』) 
○ うぐひすに此芥子酢はなみだ哉 (其角『橋南』)
(四十八) 掲出の一句目は、義士俳人の大高源五こと子葉が編纂した『二つ竹』(元禄十五年刊。討ち入りの七カ月前)所収の子葉の句である。この句には、「卯月の筍(たかんな)、葉月の松茸、豆腐は四季の雪なりと、都心の物自慢に、了我(注・江戸の俳人貞佐)さへ精進物の立(たち)かたになれば、東潮(注・江戸の俳人)、仙水(注・江戸の俳人)等とうなづきて」との前書きがある。この前書き・句意については、「京都には、陰暦四月の筍、陰暦八月には松茸、そして、豆腐は一年中あって、それを自慢にしているが、江戸生れの俳人・貞佐も、京都の精進物贔屓になられて、そこで、江戸の俳人、東潮・仙水の賛意を得て、江戸は何といっても『鰹』ということでの一句です。この初鰹を、京都の四季を代表する豆腐と同じくらいに味わいのある、江戸の四季を代表する芥子を汁に、食べる・・・、これこそ、江戸第一の味自慢だろう」というようなことであろうか。そして、掲出の二句目と三句目は、その義士俳人子葉等の一回忌追善集『橋南』(宝永二年刊)に掲載されているもので、これらについては先に触れた(第二十四・四十六)。ここでは、これらの二句(掲出二句目・三句目)は、一句目の子葉の「初鰹江戸のからしは四季の汁」を念頭においてのものであろうということを特に付記しておきたい。
(四十九) そして、この掲出の其角の三句目、「うぐひすに此芥子酢はなみだ哉」は、上記の一回忌追善の前に、その初七日の日付(元禄十六年二月十日)の懐紙に既に記録されており、さらに、其角亡き後の遺稿句集『五元集』(延享四年刊)にも収録されていることについても触れた(第二十四・四十七)。そして、初七日の日付の懐紙のものと『五元集』のものとには、前書きが付与されており、その中で、最も詳細なものは、『五元集』のものであり、その前書きをここで再掲しておきたい。
「故赤穂城主浅野少府ノ監長矩之旧臣大石内蔵之助等四十六人、同志異体ニシテ報(ムクユ)亡君之讐(カタキ)。今茲(ココニ)二月四日、官裁下リ令一時伏刃(ヤイパニフシテ)斉屍(カバネヲヒトシクセシム) 万世のさえづり黄舌をひるがへし、肺肝をつらぬく」(注・この漢文の詠みは『古典文学大系本』によっている)。
この前書きの漢文のものは、時の大学頭の林信篤の記述文のままで、この林信篤や室鳩巣は、赤穂浪士の行動を義挙として助命を主張し、荻生徂徠は天下の法を曲げる事はできずとして、武士の体面を重んじた上での切腹を主張するなど、識者の間でも、その処断の対応は大きく二分したのであった。そういう中にあって、其角は、林信篤の「義挙による助命」とも、荻生徂徠の「武士の体面を重んじた上での切腹」とも、そういう形式的にこれらの行動を見ることなく、その漢文に続く和文の基礎になっている、『文選』(もんぜん)の「三良詩」の「黄鳥タメニ悲鳴ス、哀シイ哉、肺肝ヲ傷ル」という、「殉死という無理に強いられた三人の善良な臣のむごさ、とその死を素朴に悲しんでいる詩」(今泉・前掲書)の、その詩人の眼をもって、この一句を俳人仲間の子葉等に献じていることは特に付記しておく必要があろう。また、そういう観点からの句意の理解の仕方もあるであろう。その句意の理解の一つとして、「鶯が鳴いている。その鶯の化身のような仲間が大きな政争に巻き込まれ、まるで、鶯の目に辛子酢を与えられるような酷さで、その生を絶ってしまった。彼等の目にも、そして、彼等を取り巻く我等の目にも、涙は滂沱として止まることは知らない」との解も付記しておきたい。
・・・・

 さて、この義士俳人・大高源吾こと子葉の秘蔵していた高麗の茶碗を潭北が所持していて、それを蕪村に与えたというのである。どういう経過で、潭北が源吾の秘蔵の茶碗を所持することになったのか、永い間の疑問で、「蕪村の狐狸談と同じような作り事」のような印象を持っていたのだが、どうも、この大高源吾に関することは、それに続く、「梅津半右衛門ノ尉(じょう)」に関する記述と同じように、かなりの信憑性のあるような記述のように思われてきたのである。それらの幾つかのことについて、下記に記述をして置きたい。

一 『大田原史前編』(大田原市編集委員会編)によると「佐久山の実相院に四十七士で有名な大高源吾とその弟の小野寺幸右衛門(小野寺十内の養子)そして実母の三人の墓・位牌・過去帳が実在している」のである。
(過去帳・位牌)
元禄十六発未二月四日   刃無一剣信士(大高源吾)
同            刃無颯剣信士(小野寺幸右衛門)
同   発未九月二十五日 松林院心与貞立大姉(実母)      
(墓)
大高家墓地(佐久山大高家のものを除いて大高源吾などの墓は読み取れない)
(その他)
佐久山の大高家と赤穂の大高家とは縁戚で、源吾らの母は赤穂浪士の切腹後、江戸に居ることが出来ず、佐久山の大高家に身を寄せ、形見の遺品を埋めるなどして、葬儀を行ったという。そして、自分も佐久山の大高家で亡くなり、三人の墓が共に、佐久山の大高家の墓地内にあるとのことである(斉藤半蔵著「大高家家伝集」など)。
(追記)
この大田原市佐久山の実相院の大高家の墓地などが、次のアドレスで紹介されている。そのネット記事は次のとおりである。
http://hanakoyo.exblog.jp/m2005-12-01/
[赤穂浪士の中に大田原市佐久山に縁のある人がいました。赤穂47士、大高源五忠雄(おおたかげんごただたけ)とその実弟小野寺重三(おのでらこうえもんひでとみ)。佐久山の実相院には大高一族の墓、源五と母、弟重三の過去帳、位牌があります。これは義士切腹の後、江戸に居られなく為った源五の母は源五のいとこ大高伝六郎忠知(福原家に仕える、大目付)のもとに身を寄せ、息子達の何か遺品を埋めるため儀式を行ったものと考えられます(大田原市史編)。時は元禄15年12月14日寅の上刻、めざすは本所松阪町・・・・・と語られたのはあまりにも有名な討ち入り時の語り口ですね。討ち入りの日が決まったのも彼の働きは大であった。茶の心得のあった源五は脇坂新兵衛と云う大阪の町人を装い当時の茶人山田宗偏に弟子入り。12月14日に吉良上野介の家で茶会が開かれる事をさぐりあてたのです。討ち入りの夜、源五は、弟重三と共に表門を乗り越え一番乗りの大活躍。武芸の一方茶の心得があったり俳句を学んだり(俳名・葉)と気品ある武士でした。]

二 『栃木県史(通史編四・近世一)』によると、「元文元年(一七三六)、潭北は病を得て佐久山に居住する弟の所に身を寄せていたことがわかり、また願書を出した弟渡辺嘉兵衛は烏山藩にあって士分格の身分を持った人物であったことが知られる」とあり、潭北と佐久山は深い関係にあることが察知される。
(烏山町中央「若林昌徳家文書」・「元文元年の条」)
一 私兄常磐潭北儀永々相煩、野州佐久山町弟渡辺次左衛門方ニ罷在候間罷越度願
   渡辺嘉兵衛

三 蕪村の初撰集『寛保四年宇都宮歳旦帖』(寛保四年・延享元年・一七四四)に、「佐久山 潭北」として、「梅がゝ(か)や隣の娘嫁(か)せし後」の句を寄せており、この年の七月三日に没している。このことから、佐久山が潭北の終焉の地と解せられる。

四 元禄十五年(一七〇二)十二月十四日、赤穂浪士吉良邸討ち入り。二十日に其角は秋田の其雫(きか)へ詳細な情報を送る。この年、巴人(二十七歳)は、烏山滝田天満宮に「烏山八景」(其角・嵐雪・専吟・琴風・渭北=淡々・湖十・栢十・巴人)を詠んだ句を奉納する。この時、これまでの「竹雨」の号を「巴人」と改号し、江戸に居て其角門の一人として俳諧師としての道を歩むか。当時、烏山で医業に従事していた潭北は、幼友達の巴人の影響下にあって、この巴人の奉納句を一つの契機として、其角門に入ったのではなかろうか。と同時に、巴人の俳諧同士の赤穂浪士・子葉らのことに関して、其角・沾徳に連なる俳諧同士からの情報を得て、その翌年の、佐久山実相院の大高源吾(子葉)らの埋葬に、地方の名士の一人として、何らかの役割を演じたのではなかろか。そして、蕪村の『新花摘』に出てくる「常盤潭北が所持したる高麗の茶碗は、義士大高源吾が秘蔵したるものにて、すなはち源吾よりつたへて又余(注・蕪村)にゆづりたり」とに関連しているのではなかろうか(推定と仮説)。

五 潭北の句が収載されている最も古い撰集は、宝暦四年(一七〇七)に上梓された貴志沾州ら編の『類柑子』(其角が未定稿のまま病没し沾州らが整理・追補した)である。その全三巻中の下巻が其角の追悼集で、諸家の吟にまじって、「カラス山 潭北」の名で、「臼なれど香こそ長者の大桜」の一句が手向けられいる(『下野俳諧史(中田亮著)』)。このことから、この宝暦四年以前には、潭北は烏山に在住していたことが分かる。当時の烏山藩(藩主大久保家・譜代)と大田原藩(藩主大田原家・外様)とは隣同士で、その中間に位置する与一の里(那須一族の墓がある)で知られている佐久山(旧佐久山藩・福原家)は、烏山在住の潭北の行動圏と解しても差し支えなかろう。

六 潭北と巴人との関係は、こと俳諧活動においては、巴人が潭北の其角門の兄弟子という関係である(巴人の句は元禄四年・十六歳の時竹雨の号での『若みどり(不角撰)』が初見で、俳歴からして潭北よりも相当の長がある)。そして、巴人は、貞享元年(一六八四)の九歳の頃江戸に出て、享保十二年(一七二七)の大阪を歴遊して京都に居を定めるまでの前半生は、専ら江戸で活躍し、その下野・烏山の俳諧活動の名代格が潭北という関係でなくもない。そして、潭北が中央(江戸)の俳諧活動で名を成すのは、巴人が江戸を出て大阪・京都に行き、そのまま京都に在住して、再び江戸に再帰する元文二年(一七三七)の頃までで、巴人の江戸再帰後は、また、巴人の後塵を拝し、巴人をサポートとしているという雰囲気でなくもない。そして、何よりも、潭北は、俳諧活動よりも、享保六年(一七二一)・四十五歳の時刊行した『民家分量記』などを通しての「庶民教化指導者」としての活動が顕著であり、この面での潭北の活動は、その著書の普及・流布の状況からして、全国レベルで、相当な名士であったことが了知される[その一例として、宝暦二年刊の『教訓雑長持』の著者・伊藤単朴の「単朴」は「潭北」を尊敬するところから名乗ったものと指摘されている(『江戸時代人づくり風土記』所収「「常盤潭北の家庭教育論(入江宏稿)」)]。

七 潭北の『民家分量記』などに関わることは多岐にわたるが、その根本的な思想の一つとして、『野總茗話』巻三の中で比喩的に用いられている「心柱(しんばしら)」(日本建
築用語の「塔などの中心の柱のこと。擦(さつ)ともいう」と同じ意か)というのがある。その「心柱」について、潭北は「それ人の心は義也、たとえば仁ハ棟梁のごとし、棟梁有ても柱なければ、家の立(たた)ざるが如く、道に志有ても義なけれバ、行はれ申さず候」と、「義」(打算や損得のない人間としての正しい道のこと。この「義」から派生した言葉として「大義・道義・節義・忠義・仁義・信義・恩義・律義」などあるが、武士道に連なる「義士・義挙」もあげられる)を中心の価値観に据えている(『栃木県史・通史編四・近世一』並びに『日本思想体系五九近世町人思想』所収「百姓分量記(中村幸彦校注)解説」)。この潭北の「心柱」・「義」という根本的価値観と元禄十五年(一七〇二)の「赤穂浪士吉良邸討ち入り」の「義挙」とは相通ずるものがあることも特記して置きたい。

八 当時の奥州街道は、江戸→宇都宮→(佐久山)→大田原→白河というルートであるが、その脇道として、宇都宮→烏山→黒羽→白河の旧東山道のルートがあり、その二つの幹線道路を結ぶ烏山と佐久山とのルートもある。そして、潭北の二つの居住地の「烏山」と「佐久山」とは同じ下野国(栃木県)の県北地方の戦国大名那須氏の居城があった所で、歴史的・地理的にも近隣の地であることも付記して置きたい(『栃木県史・通史編四・近世一』)。

九 蕪村と親交のあった三宅嘯山が安永二年(一七七三)に刊行した『俳諧新選』の四季・雑の類題別五巻のなかに、「下野佐久山」の俳人として「岳陽・羅雲」と並んで「潭蚊」という俳人が居り、巻之一(一句)・巻之二(一句)・巻之四(二句)の四句が収載されており、潭北と何らかの関係のある俳人と思量される。さらに、宝暦十三年(一七六三)に刊行された『俳諧古選』(三宅嘯山撰)の巻之五に、「潭北が奥より帰りし喜びて、同行祇空子に申し贈る」と前書きのある、「古郷の子をかけて見よわれもこう」の作者が「潭北母」とあり、非常に興味の惹かれるところである(『下野俳諧史(中田亮著)』)。

十 『下野の俳諧(竹末広美著)』の「黒羽・烏山連の人びと(那須群)」と題して、十八世紀の俳人のなかに、佐久山連の「潭交・潭釣・潭梁」の三人の名を紹介しているが、これらの佐久山連の俳人も潭北と何らかの関係のある俳人と思量される。

# by yahantei | 2009-06-14 06:58 | 其角と蕪村
蕪村の『新花摘』の挿絵周辺(その二)

 蕪村の『新花摘』の潭北と若き日の蕪村の「野総」(「下野・上野」・「下總(茨城・千葉の一部)」)を中心とする「関東行脚」並びに「奥羽行脚」に関する記述は大変に示唆の含んだ興味の尽きないところである。それらの幾つかについて、ここに記述して置きたい。


・・・・
いささか故ありて(注・寛保二年六月師の早野巴人の死後を指す)、余(注・蕪村)は
江戸をしりぞきて、しもつふさゆふきの(注・下総国結城の)雁宕(注・砂岡雁宕)が
もとをあるじとして、日夜はいかいに遊び、邂逅にして柳居(注・佐久間柳居)がつく
波(注・筑波)まうでに逢いてここかしこに席(注・俳席)をかさね、或は潭北と上野(注・群馬県)に同行して処々にやどりをともにし、松島のうらづたひして好風におもて
をはらひ、外の浜(注・青森県の東岸で、謡曲「善知鳥(うとう)」の伝説で名高い)
の旅寝に合浦(注・津軽地方の合浦)の玉のかへるさを忘れ、とざまかうざまとして、
既三とせあまりの星霜をふりぬ。
 ・・・・


 ここのところの、「いささか故ありて」というのは、寛保二年(一七四二)六月六日に、夜半亭一世宋阿(早野巴人)が亡くなり、その遺稿を「一羽烏」と題して編もうとしたが断念して、江戸を去って下総結城の兄弟子に当たる砂岡雁宕を頼って、以後、野總奥羽の間を歴行する十年余の記述なのである。

そして、「日夜はいかいに遊び、邂逅にして柳居(注・佐久間柳居)がつく波(注・筑波)まうでに逢いてここかしこに席(注・俳席)をかさね」とは、正確には、宋阿が在世中の元文五年(寛保元年・一七四一)の冬から春にかけての頃で、「つくば山の山本に春を待つ」と前書きを付与して、蕪村の号の前の号の「宰鳥」の号での、「行く年や芥流るゝさくら川」の一句を、宋阿最後の歳旦帖(『辛酉歳旦 夜半亭』)に収載しているのである。
このことから、元文五年に、当時、二十五歳の蕪村は、当時、四十六歳の、享保俳諧の一翼を担った中心的な俳人の一人の、佐久間柳居と、筑波詣で邂逅して、俳席を一緒にしたというのである。これらに関しての柳居側からの直接的な資料は遺されていないが、間接的な資料として、柳居の門人・秋瓜に連なる満事庵買風編『茶の花見』(志田文庫本『筑波詣の紀行』)で、柳居の年譜にも、柳居の蕪村詣と「蕪村らとの交流」が記述されている。

 ここで、蕪村の『新花摘』に関連するところの、柳居、潭北、巴人、そして、蕪村の年譜を、少し遡って併記すると次のとおりである。


享保十一年(一七二六) 柳居、三十二歳。師と頼む沾徳が他界する。潭北、五十歳。『民家分量記』(「百姓分量記」)刊行。巴人(「延宝四年誕生説」)は、五十一歳。翌十二年に江戸を出立して、京都に移住する。蕪村、十一歳。

享保十六年(一七三一) 柳居、三十七歳。『五色墨』刊行。柳居の号は長水。潭北、五十五歳。下総を中心として、俳諧師と共に庶民教化指導者として各地を巡遊。巴人は京都にあって、この頃は、郢月泉(えいげつせん)の号か。蕪村、十六歳。

享保十八年(一七三三) 柳居、三十九歳。石霜庵(祇空)門人編『四時観』の跋文を記す。この年の四月二十三日、敬雨(祇空)没。柳居は「長水」から「麦阿」に改号。潭北、五十七歳。この前年に、沾涼編『綾錦』で江戸俳壇の代表的な俳人の一人として登場。『野総茗話』刊行。巴人、五十八歳。『一夜松』刊行。京都俳壇の代表的な俳人の地位を確立。
蕪村、十八歳。

元文二年(一七三七) 柳居、四十三歳。『世中百韻』刊行(中川乙由等の伊勢派俳諧を表明)。巴人、六十二歳。春、京都を出立し、日本橋本石町に夜半亭を結ぶ。蕪村入門。蕪村、二十二歳。

元文四年(一七三九) 柳居、四十五歳。師と頼む中川乙由他界。巴人、六十四歳。其角・嵐雪の三十三回忌追善集『俳諧桃桜』刊行。潭北、六十三歳。『俳諧桃桜』にその名が見られる。蕪村、二十二歳。『俳諧桃桜』に「宰鳥」の名で登場。

元文五年(一七四〇) 柳居、四十六歳。二月から七月にかけて伊勢・吉野・和歌の浦・京都・尾張に出向く。冬、筑波詣で、蕪村らと交流。巴人、六十五歳(病没する二年前)。
潭北、六十四歳。蕪村、二十五歳。

寛保元年(一七四一) 柳居、四十七歳。七月剃髪。九月以降俳諧に専念。巴人、六十六歳。最後の歳旦帖『辛酉歳旦』刊行。蕪村の筑波詣の句が収載される(号は宰鳥)。潭北、六十五歳。蕪村、二十六歳。

寛保二年(一七四二) 柳居、四十八歳。三月、芭蕉の足跡を慕い奥羽行脚。四月、鶴岡・羽黒山、松島・塩釜巡遊。巴人、六十七歳。六月六日他界。潭北、六十六歳。蕪村、二十七歳。巴人没後、蕪村は十年余北関東を流寓する。蕪村の奥羽行脚は、寛保二年秋・冬から約一年間(推定)。

寛保三年(一七四三) 柳居、四十九歳。十一月、芭蕉五十回忌集『同光忌』刊行。潭北、六十七歳。蕪村、二十八歳。宋屋編『西の奥』(宋阿追善集)刊行。蕪村一句収載(号は宰鳥)。

寛保四年(延享元年・一七四四) 柳居、五十歳。潭北、六十八歳。七月三日他界。蕪村、二十九歳。この春、宇都宮にあって『寛保四年宇都宮歳旦帖』を刊行(初めて「蕪村」の号を用いた)。潭北の「梅が香や隣の娘嫁せし後」の句が収載されているが、潭北の遺句ともいえるものでもあろう。

延享五年(寛延元年・一七四八) 柳居、五十四歳。五月晦日他界。蕪村、三十三歳。翌宝暦元年(一七五一)八月、木曽路を経て京に再帰する。

これらの年譜を見ていくと、御家人出身の『五色墨』運動(蕉風俳諧復興運動)の中心的な俳人であった柳居が、筑波詣の旅で偶然出会った乞食僧風情の蕪村と俳席を重ねるということは、蕪村は随行者であって、その蕪村が随行している主たる俳人は、それは、早野巴人であり、常盤潭北ということになろう。

 さらに、巴人は、享保十二年(一七二七)から元文二年(一七三七)にかけて、十年余、江戸を離れて関西の大阪・京都に移住しており、こと、旗本出身の佐久間柳居との関連では、巴人よりも、潭北の方が柳居には近い俳人であったといえるであろう。事実、柳居が師事した、水間沾徳は、潭北の『汐越』の「序」を起草した江戸俳壇の主要な俳人で、また、柳居らの精神的支柱となった俳人・敬雨(稲津祇空)も、蕪村が誕生した享保元年(一七一六)に潭北と一緒に奥羽行脚をしており、こういうことからしても、潭北と柳居との接点というのは、巴人と柳居との接点よりも濃厚のように思われるのである。とすれば、蕪村と柳居の「筑波詣での邂逅」は、潭北に随行しての時という理解も可能であろう。

いずれにしろ、その後に続く、「松島のうらづたひして好風におもてをはらひ、外の浜(注・青森県の東岸で、謡曲「善知鳥(うとう)」の伝説で名高い)の旅寝に合浦(注・津軽地方の合浦)の玉のかへるさを忘れ、とざまかうざまとして、既三とせあまりの星霜をふりぬ」という、これらの蕪村の奥羽行脚は、蕪村の単独行ということになろう。

そして、実は、同じ寛保二年(一七四二)に、柳居も、芭蕉の足跡を慕い奥羽行脚を決行しているのである。しかし、蕪村がたった独りの行脚であったのに対して、柳居の方は、門人・秋瓜ら二人と従者一人の四人連れで、さらに、柳居の門人には庄内藩士の名も見ることができ、蕪村の乞食行脚的なそれとは雲泥の差であったであろう。

 それと同時に、柳居、そして、蕪村の奥羽行脚に関連して、いわゆる、柳居、そして、蕪村の師の巴人や潭北に連なる、沾徳や其角の江戸座俳諧のネットワークというものは、濃淡の差はあれ、奥羽地方の主要な各地に張り巡らされていたという理解も可能であろう。

 これらに関して、蕪村の『新花摘』には、直接の記述ではないけれども、岩代国(福島県須賀川市)の其角門の藤井晋流(須賀川の本陣・藤井半左衛門の俳号)と同じく其角門の、秋田藩(秋田県)の重臣(知行一万石)・梅津半右衛門忠明(俳号・其雫)の名が登場してくるのは興味が惹かれるところである。
さらに、享保八年(一七二三)に津軽藩(青森県)の細工師として三十両五人扶持でかかえられることとなった、芭蕉・其角・嵐雪・沾徳(巴人・潭北・柳居にも連なる)と親交のあった小川破笠(笠翁)なども、それらのネットワークとは無縁ではなかろう。

ここで、これらの、其角・嵐雪・沾徳門に連なる面々について、ネットの世界(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』・「朝日日本歴史人物事典」など)で、どのように紹介されているかを見てみたい。

与謝 蕪村(よさ ぶそん、よさの ぶそん、享保元年(1716年)- - 天明3年12月25日(1784年1月17日))は、江戸時代中期の日本の俳人、画家。本姓は谷口、あるいは谷。「蕪村」は号で、名は信章通称寅。「蕪村」とは中国の詩人陶淵明の詩「帰去来辞」に由来すると考えられている。俳号は蕪村以外では「宰鳥」、「夜半亭(二世)」があり、画号は「春星」、「謝寅(しゃいん)」など複数の名前を持っている。(「経歴」など略)

佐久間柳居 (さくま‐りゅうきょ) 1686‐1748 江戸時代中期の俳人。
貞享(じょうきょう)3年生まれ。幕臣。貴志沾洲(せんしゅう)の門にはいるが、江戸座の俳風にあきたらず、中川宗瑞(そうずい)らと「五色墨」をだす。のち中川乙由(おつゆう)の門下となり、蕉風(しょうふう)の復古をこころざし、松尾芭蕉(ばしょう)の五十回忌に俳諧(はいかい)集「同光忌」を撰した。延享5年5月30日死去。63歳。名は長利。通称は三郎左衛門。別号に松籟庵、長水、眠柳など。

砂岡雁宕 いさおか‐がんとう
?‐1773
江戸時代中期の俳人。
内田沾山(せんざん)にまなぶ。のち早野巴人(はじん)の高弟となり、同門の与謝蕪村(よさ‐ぶそん)と親交をむすんだ。江戸俳壇で活躍し、「蓼(たで)すり古義」「俳諧(はいかい)一字般若(はんにゃ)」をあらわして大島蓼太(りょうた)と論争した。安永2年7月30日死去。下総(しもうさ)結城(ゆうき)(茨城県)出身。通称は四良左衛門。別号に茅風庵(ちふうあん)、伐木斎。姓は伊佐岡ともかく。

早野巴人(はやの はじん、延宝4年(1676年)- - 寛保2年6月6日(1742年7月7日)) 江戸時代の俳人。与謝蕪村の師。のち夜半亭宋阿(やはんてい そうあ)と改める。
(略歴)下野国那須郡烏山(現・栃木県那須烏山市)に生まれる。延宝5年(1677年)の生まれの説もある。幼くして(9歳の頃)江戸に出て俳諧の道を志す。元禄2年(1689年)松尾芭蕉の「奥の細道」の足跡を辿って旅をする。再び江戸に戻り、宝井其角、服部嵐雪の門人となり俳諧を学ぶ。享保12年(1727年)京都に移る。 元文2年(1737年)砂岡雁宕の誘いにより江戸へ戻り、夜半亭を日本橋本石町に構える。この時に号を宋阿とする。この頃、江戸に出てきた与謝蕪村が門人となる。寛保2年6月6日夜半亭にて病没。享年67。辞世の句は「こしらへて有りとは知らず西の奧」である。

常盤潭北(ときわ‐たんぽく) 1677‐1744 江戸時代中期の俳人、心学者。
延宝5年生まれ。榎本其角(きかく)の門人。与謝蕪村(よさ‐ぶそん)ともしたしく、俳書に「汐越(しおこし)」など。医業に従事していたが、庶民教育を重視し、関東一円を講話してまわり、「民家分量記」などを出版した。延享元年7月3日死去。68歳。下野(しもつけ)(栃木県)出身。本姓は渡辺。名は貞尚。字(あざな)は尭民。別号に百華荘。
【格言など】我を誉(ほむ)る者は末の仇、我を譏(そし)る者は当座の師(「民家分量記」)

稲津祇空(いなづ・ぎくう)
生年:寛文3(1663)
没年:享保18.4.23(1733.6.5)
江戸前・中期の俳人。通称は伊丹屋五郎右衛門。別号は青流,敬雨,竹尊者,玉笥山人,有無庵,石霜庵など。大坂の人。俳諧は岡西惟中,椎本才麿に師事。松木淡々の手引きで東下し,やがて榎本其角門に入る。其角他界の折にはその追善集『類柑子』の編集にかかわり,にわかに活躍を示し出す。正徳4(1714)年には箱根早雲寺の飯尾宗祇墓前で剃髪し,祇空と改号。一時大坂に帰郷したこともあったが,享保初期まではおおむね江戸に在住。のち京都紫野大徳寺に移り,夢に敬雨の2字を感得して改号。諸所へ引杖後,享保16(1731)年に箱根湯本に石霜庵を結ぶ。隠者然とした高潔な人柄を慕う者多く,その俳風は「法師風」と称された。<参考文献>倉橋連之祐「祇空年譜」(『島田筑波集』上),潁原退蔵「祇空」(『潁原退蔵著作集』5巻),桜井武次郎「祇空と淡々」(日本文学研究資料叢書『蕪村・一茶』) (楠元六男)

水間沾徳(みずませんとく)(~享保11年(1726)5月30日)
内藤露沾の弟子。江戸の人。『別座舗』の連衆の一人。後に享保期の江戸の中心的俳人となる。

内藤露沾(ないとう・ろせん)
生年:明暦1.5.1(1655.6.5)
没年:享保18.9.14(1733.10.21)
江戸前・中期の俳人。磐城平藩(福島県いわき市)藩主,内藤風虎の次男。幼名は五郎四郎義英,のち政栄。別号に傍池亭,遊園堂。兄他界のため家督を継ぐ立場にたつが,お家騒動にまきこまれて,天和2(1682)年病気を理由に退身。早くから俳諧に親しみ風虎サロンの若亭主として活躍するが,退身後は江戸蕉門とも交流した。麻布六本木の自邸で月次興行を催すなど,風流三昧の生活を送る。福田露言,水間沾徳,菊岡沾涼らはその門人(『綾錦』)。<参考文献>岡田利兵衛「内藤風虎,内藤露沾」(明治書院『俳句講座』2巻) (楠元六男)

小川破笠(おがわ・はりつ)
生年:寛文3(1663)
没年:延享4.6.3(1747.7.10)
江戸中期の漆芸家。出身は伊勢(三重県),あるいは江戸ともいうが明らかではない。笠翁,卯観子,夢中庵などと号し,英一蝶や宝井其角などとの交わりを通じて,絵画や俳諧の道にも長じた。遺された作品からみる限り,破笠が漆芸の道に入ったのは享保(1716~36)のころ,50歳を過ぎてからのことで,幼少のうちから修業を積むケースが多い漆工のなかでは,やはり異色の存在といえよう。江戸後期の装飾技術について述べた『装剣奇賞』に「観子破笠 江戸人 上手なり。此人の蒔絵には必ず楽焼又は堆朱又は染角などをあしらひ仕立る事,甚だ風流なる物なり。是又一名家といふべし」と記されているように,漆芸家としての破笠の特色は,従来の常識にない装飾材料を大胆に用いる点にあった。代表作のひとつ「貝尽文料紙硯箱」(サントリー美術館蔵)では貝殻や玉石が,そして「印籠文色紙箱」(東京国立博物館蔵)では堆朱の根付や瑪瑙の緒締が画面に嵌装されている。破笠の作品は,伝統的な漆芸の流れからすればいかにも奇を衒ったようにみえるが,同時期の絵画の傾向などと対比してみれば,決して奇というにはあたらない。享保8(1723)年に破笠が弘前藩5代藩主の津軽信寿に招かれて寵遇を受け,諸方からの作品の注文が引きも切らない状態になったのも,また破笠の作品が一時の徒花に終わらず,今日もなお,国内はもとより西欧諸国で大いにもてはやされているのも,その作風が世間一般に通じる普遍性を持っていることの証しといえよう。また,職人として無名のまま生涯を終える漆工が多いなかで,「夢中庵破笠」「卯観子笠翁」などの銘を目立つところに書き込んだ破笠は近世の漆芸界に初めて強烈な作家意識を持ちこんだ人物としても記憶されなくてはならない。<参考文献>風俗絵巻図書刊会会編『蒔絵師伝・塗師伝』,京都国立博物館編『笠翁細工』 (小松大秀)

宝井 其角(たからい きかく、 寛文元年7月17日(1661年8月11日)- - 宝永4年2月30日〈一説には2月29日〉(1707年4月2日))は、江戸時代前期の俳諧師。
本名は竹下侃憲(たけした ただのり)。別号は螺舎(らしゃ)、狂雷堂(きょうらいどう)、晋子(しんし)、宝普斎(ほうしんさい)など。(「経歴」など略)

服部 嵐雪(はっとり らんせつ、承応3年(1654年) - 宝永4年10月13日(1707年11月6日))は、江戸時代前期の俳諧師。幼名は久馬之助、通称は孫之丞、彦兵衛など。別号は嵐亭治助、雪中庵、不白軒、寒蓼斎、玄峯堂など。江戸湯島生まれ。松尾芭蕉の高弟。雪門の祖。(「経歴」など略)

# by yahantei | 2009-06-11 08:51 | 其角と蕪村
蕪村の『新花摘』の挿絵(その一)

次のアドレスに、下記のような呉春(松村月渓)の年譜が記述されている。この年譜の[1784年、蕪村旧稿「新花摘」の挿絵を描き上梓]のとおり、天明四年(一七八四)に、蕪村没後に、蕪村が生前に書き留めていたものを『新花摘』(月渓の跋文では「続花つみ」)として、挿絵七図を配して上梓した(正確には、蕪村の元の冊子を呉春が横巻として挿絵七図を配し、寛政九年に版本として上梓された)。

http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/jart/nenpu/2gs001.html

呉春
[読み] ごしゅん
[始年] 1752-
[終年] 1811年
1774年頃、蕪村に師事するか(蕪村連句集「昔を今」)。
1777年、「羅漢図」(逸翁美)を描く(款記)。
1778年、遊廓島原の名妓雛路を身請けし妻とする。
「騎馬狩猟図」(逸翁美)。
1781年、妻事故死、父江戸で客死、池田に移住。
1782年、姓を呉、名を春、字を伯望とし剃髪。
1783年、師蕪村没す。
1784年、蕪村旧稿「新花摘」の挿絵を描き上梓。
1786年、「芭蕉幻住庵記画賛」を描く。
1787年、応挙に従い大乗寺に描く。
妙法院真仁法親王に召され席画する。
1795年、応挙没す。
1796年、岸駒と「山水図」を合作。
1810年、後妻ウメ女没す。
1811年、没す。
1817年、「流芳遺事」

 この蕪村の『新花摘』の呉春の挿絵は、次のアドレスで紹介されている。

一図(早乙女図) 10丁裏 / Leaf 10 Back・11丁表 / Leaf 11 Front・11丁裏 / Leaf 11 Back
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf10b.html
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf11f.html
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf11b.html
二図(蕪村・潭北図) 16丁裏 / Leaf 16 Back・17丁表 / Leaf 17 Front
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf16b.html
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf17f.html
三図(白石旅舎図) 21丁裏 / Leaf 21 Back・22丁表 / Leaf 22 Front
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf21b.html
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf22f.html
四図(結城丈羽別荘図) 26丁表 / Leaf 26 Front
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf26f.html
五図(下館中村風篁邸・阿満図) 34丁表 / Leaf 34 Front 
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf34f.html
六図(下館中村風篁邸・三老媼図) 37丁表 / Leaf 37 Front・37丁裏 / Leaf 37 Back
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf37f.html
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf37b.html
七図(渭北・俳席図) 41丁裏 / Leaf 41 Back・42丁表 / Leaf 42 Front
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf41b.html
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf42f.html

これらの七図のうち、二図(蕪村・潭北図)は興味深い。この二図について、若き僧の図を蕪村として、老僧の図を潭北とするという理解は、『新花摘』の文面からの理解であり、これらの図に、「蕪村・潭北」との名前を付した文献というものは寡聞にして知らない。しかし、この二図の若き僧こそ、当時、釈氏を称し、法体をしていた、後の、与謝蕪村その人と理解をしたい。

そして、それは、文面からして、「潭北と上野(現群馬県)に同行」していた頃の図ということになろう。この潭北は、「常磐氏。名は貞尚。下野(現栃木県)那須烏山の人。其角・沾徳門。医を業として庶民教育(社会教育)の第一人者であった。延享元年没」で、蕪村の師の夜半亭一世宋阿(早野巴人)と、同郷(那須烏山出身)・同年(巴人は延宝四年、潭北は延宝五年とされているが、同年とする説もある)・同門(其角門)の親しい間柄である。巴人亡き後、結城の砂岡雁宕と共に、蕪村の庇護者となった、蕪村にとっては、忘れ得ざる人ということになる。

この潭北が法体となっているが、これは、呉春は潭北とは面識はなく、呉春の、蕪村の文面を読んでの想像図ということになろう。しかし、『新花摘』の、「潭北はらあしく(注・気短かに)余(注・蕪村)を罵(ののしり)て」、「むくつけ(注・無風流な)法師よ」と怒鳴りつけるなど、眉毛を八の字にして、いかにも、俳諧師で且つ当時の教化指導者の第一人者のうるさ型の潭北像という雰囲気でなくもない。
この常磐潭北の墓は、那須烏山市の善念寺にあり、次のアドレスで、その善念寺と潭北についての紹介記事がある。

http://www11.ocn.ne.jp/~zennenji/1rekisi.html

1 善念寺

善念寺は文禄二年(1593年)の創建以来、那須郡烏山の地にその法灯を護持してきた古刹である。開基の良信住関上人は佐竹氏の出で、玉造伊勢の守の三男として生まれ、後に名超派大沢円通寺良定袋中上人に指南を受けた。本尊は阿弥陀如来像で、他に二十五菩薩や善導大師像、法然上人像を祀っている。
 境内には、子育て地蔵堂、常盤潭北(渡辺潭北)の墓や「放下僧」ゆかりの牧野家墓(牧野山三学院歴代墓地)などがある。

2 常盤潭北

潭北は、延宝5年(1677年)烏山町の渡辺家に生まれ、名は貞尚、字は堯氏、号を潭北または百華と称した。生家は代々名字帯刀を許された郷宿と称する公用旅宿であった。
 潭北と同年に生まれた与謝蕪村の師で竹馬の友の俳人の早野巴人は、早くから伯父の江戸日本橋の唐木屋重兵衛を頼って食客となり、生来好きな俳諧に打ち込み、蕉門随一の榎本其角、服部嵐雪の教えを受けていた。巴人の影響で江戸遊学への志をかきたてられた潭北は、早くから江戸に出て医学を学び、その傍ら巴人と交わりを深め、巴人の手引きで当時江戸俳壇の有名な宗匠のところに出入りするようになり、また其角の弟子となり俳諧を修め、「汐こし」「後の月日」「反古さらし」「としのみどり」などを残した。
 潭北は江戸宗匠群の一人に数えられ、沾州、貞佐など、当時有名だった点者と同列に扱われ、一流の宗匠に格付けられていた。
潭北は、俳諧のかたわら早くから庶民教育の必要を解し常・総・野の諸州を巡廻して、多くの人々に道を説き、村老を集めて郷村団結の必要を教えた。それらの講話の積んで篇をなしたものに「民家分量記」「野総茗話」(民家童蒙解)がある。
潭北が俳人宗匠として諸国を遊歴して庶民と交わり行く先々で行った講説は、農民生活の事実に求め、身近な農村社会の現実に即した処世訓を展開した。潭北は教化活動に専念し日本庶民教育史上に多大なる功績を残した人物である。(善念寺渡辺家墓地)

また、 享保十七年(一七三二)に刊行された『綾錦』(菊岡沾涼編)には次のとおりの記述がある。

[現  常盤百花荘
 潭北・・・・・・
   本土野州那須
  編     汐こし 後の月日 反古さらへ としのみどり
  はい書ノ外 民家分量記 分量夜話 ]


 ここで、潭北の主たる編著を年代別に記すと次のとおりである。

享保元年(一七一六)  四十歳  『汐越』(「汐こし」)刊行。
享保六年(一七二一)  四十五歳 『民家分量記』(内題「百姓分量記」)の稿成る。
享保七年(一七二二)  四十六歳 『今の月日』(『後の月日』)刊行。
享保九年(一七二四)  四十八歳 『婦登故呂故』(『俳諧婦登古呂子』)の稿成る。
享保十年(一七二五)  四十九歳 『百華斎随筆』刊行。
享保十一年(一七二六) 五十歳  『民家分量記』(「百姓分量記」)刊行。
享保十八年(一七三三) 五十七歳 『野総茗話』(「分量夜話」)刊行。
元文二年(一七三七)  六十一歳 『民家童蒙解』刊行。

また、蕪村の『新花摘』の潭北に関する文面は次のとおりである。

・・・・
いささか故ありて(注・寛保二年六月師の早野巴人の死後を指す)、余(注・蕪村)は
江戸をしりぞきて、しもつふさゆふきの(注・下総国結城の)雁宕(注・砂岡雁宕)が
もとをあるじとして、日夜はいかいに遊び、邂逅にして柳居(注・佐久間柳居)がつく
波(注・筑波)まうでに逢いてここかしこに席(注・俳席)をかさね、或は潭北と上野(注・群馬県)に同行して処々にやどりをともにし、松島のうらづたひして好風におもて
をはらひ、外の浜(注・青森県の東岸で、謡曲「善知鳥(うとう)」の伝説で名高い)
の旅寝に合浦(注・津軽地方の合浦)の玉のかへるさを忘れ、とざまかうざまとして、
既三とせあまりの星霜をふりぬ。
 ・・・・
常盤潭北が所持したる高麗の茶碗は、義士大高源吾が秘蔵したるものにて、すなはち源
吾よりつたへて又余にゆづりたり。
 ・・・・
 こたび何月某の日は、義士四十七士式家(注・高家の誤記か)の館を夜討して、亡君の
 うらみを報い、ねんなうこそ泉岳寺へ引とりたり。子葉・春帆など、ことに比類なきは
 たらき有たり。かの両士は此の日来、我几辺になれて、風流の壮士なれば、わけて意気
 感慨に堪ず
 ・・・・
松しまの天麟院は瑞巌寺と甍をならべて尊き大禅刹也。余(注・蕪村)、其寺に客たりける時、長老(注・禅寺で住持または和尚の敬称)古き板の尺余ばかりなるを余にあたへて曰、「仙台の太守中将何がし殿(注・伊達吉村)は、さうなき歌よみにておはせし。多くの人夫して名取河(注・陸奥国名取郡を流れる川)の水底を浚(さぐら)せ、とかくして埋れ木(注・名取川の名産)を堀もとめて、料紙、硯の箱にものし、それに宮城野(注・仙台の萩の名所、歌枕)の萩の軸つけたる筆を添て、二条家(注・和歌の家筋の一)へまゐらせられたり。これは其板の余りにて、おぼろけならぬもの也」とてたびぬ(注・下さった)。
・・・・
重さ十斤(一斤は六〇〇グラム)ばかりもあらん、それをひらづゝみして肩にひしと負ひつも、からうじて白石(注・宮城県白石市)の駅までもち出(いで)たり。長途の労れたゆべくもあらねば、其夜やどりたる旅舎のすの子(注・簀の子)の下に押やりてまうでぬ(帰ってきた)。
・・・・
そのゝちほどへて、結城の雁宕がもとにて潭北にかたりければ、潭北はらあしく(注・気短に)余を罵て曰、「やよ(注・やあ)、さばかりの奇物(注・珍品)うちすて置たるむくつけ(注・無風流)法師よ、其物我レ得てん、人やある(注・誰かいないか)、ただゆけ」と須賀川(注・福島県須賀川市)の晋流(注・須賀川の本陣・藤井半左衛門の俳号。其角門)がもとに告やりたり。
・・・・
駅亭(注・宿屋)のあるじかしこく(注・幸いに)さがし得てあたへければ、得て(注・受け取って)かへりぬ。後、雁宕(潭北から雁宕へ)つたへて「漁鶴」といへる硯の蓋にしてもてり。結城より白石までは七十里余ありて、ことに日数もへだたりぬるに、得てかへりたる、けうの事也(注・非常に珍しいことだ)。
 

# by yahantei | 2009-06-09 11:58 | 其角と蕪村
「蕪村づくし」の蕪村の句(鑑賞)

1 カツ丼とタヌキの号をもつ大家(おおや)  不遜 
2 鮎くれてよらで過行夜半の門        蕪村 
(鑑賞)季語・鮎。夜半のこと、釣った鮎を門の所に置いて、そのまま立ち去る。「過行」
=すぎゆく。中国の逸話の俳諧化(これを考慮しないでも一句か)。
# by yahantei | 2008-01-02 09:10 | 蕪村周辺エムエル
(その十) 

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廿二日

一一七 閼伽棚に何の花ぞもさつきあめ

一一八 葉を落て火串に蛭の焦る音

一一九 宿近く火串もふけぬ雨のひま

一二〇 照射して囁く近江やわたかな

一二一 雨やそも火串に白き花見ゆる

一二二  葉うらうら

一二三  谷風に付木吹ちる火串かな

一二四  兄弟のさつを中よきほぐしかな

一二五  あか汲て小舟あはれむ五月雨

一二六  水古き深田に苗のみどりかな

廿三日

一二七 けふはとて娵(よめ)も出(いで)たつ田植哉

一二八 泊りがけの伯母もむれつゝ田うへ哉

     獺
一二九 おその住む水も田に引ク早苗哉

一三〇 参河なる八橋もちかき田植かな

(句意など)(『清水・前掲書』)による。

一一七 閼伽=梵語の音訳。功徳・功徳水。仏に供える水や花。「うちわたすをちかた人にもの申すわれそのそこに白く咲けるはなにの花ぞ」(『古今集』旋頭歌)が背景にあるか。

一一八 葉にへばりついていた山蛭が、火串の火中に落ちて焦げる音がする。

一一九 猟師が雨の合間をぬって宿近くに照射(ともし)を設けた。

一二〇 照射(ともし)を設けて近江と八幡の二人が囁いている。近江は「近江小藤太」、八幡は「八幡三郎」を指す(『曽我物語』)。

一二一 雨の滴が火串に光っているのだろうか。それとも白い花なのだろうか。

一二二 「葉うらうら」というのは、一二一の別形の句で、「葉うらうら火串に白き花光る」のそれなのか、それとも、次の一二三の「谷風に付木吹ちる火串かな」の前書なのか、どちらにも解せなくもない。なお、『清水・前掲書』では、一二一の別形と解して、その上五は「葉うらはうら」の詠みである。そして、その句意は、「すべての葉裏が火串の光を反映して、花のように白くみえるよ」としている。

一二三 火串に火をつけようとしても、谷風が強く付け木が吹き消されてしまう。

一二四 「さつを」は猟師。兄弟の猟師が仲良く火串を設けて獲物を待ち受けている。

一二五 「あか」は舟底に溜った水。漁師が五月雨で小舟の舟底に溜った水を汲みだして愛おしむように手入れをしている。

一二六 水は古びて苔いろになっている深い田に早苗の若緑が鮮やかである。

一二七 田植えともなれば今日こそはと、新婚早々のお嫁さんも早乙女姿で田植えの仕事をしている。

一二八 田植えの手伝いの泊まりがけの伯母は人達と交わり田植え作業をしている。

一二九 前書きは「獺」(をそ・かわうそ)である。人里離れたかわうその住む水も田植え時には田に引いて来る。

一三〇 歌枕で名高い三河の八橋の近くでも田植えの最中である。

※ これらの廿二日(九句)、廿三日(四句)は、「五月雨・照射(ともし)・猟師・漁師」・「田植え」と、当時の蕪村の句会などの題詠などのものを、思い付くままに書き付けているという趣である。


# by yahantei | 2007-10-02 21:37 | 其角と蕪村
(その九)

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十九日
  
一〇三 若竹や是非もなげなる芦の中

     春草
     春草綿々不可名 水辺原上乱
     抽栄 似嫌車馬繁華地 纔入城門
     便不生
     右劉原甫

     蟻垤(ぎてつ)
一〇四 蟻王宮朱門を開く牡丹哉
  
一〇五 さみだれや田ごとの闇と成にけり

廿日

    右の句は去年の夏云ひすてたる句也。
    百地月居が日記にも書もらし
     たるべし。あへてよき句といふには
     あらねど、いさゝかおもふしさいあれば、
     かいつけ侍るなり

一〇六 うきくさも沈むばかりよ五月雨

一〇七 ちか道や水ふみわたる皐雨
 
     径
一〇八 さみだれや鳥羽の小路を人の行

             
一〇九 さみだれに見えずなりぬる径(コミチ)哉

廿一日

           
一一〇 五月雨や滄海を衝(ツク)濁水

一一一 さみだれや水に銭ふむ渉し舟

一一二 濁江に鵜の玉のをや五月雨
    
一一三 摂(カヽゲ)あへぬはだし詣りや皐雨

一一四 さみだれや鵜さへ見えなき淀桂

一一五 皐雨や貴布禰の社燈消る時

一一六 小田原で合羽買たり五月雨

一一七 閼伽棚に何の花ぞもさつきあめ

(句意など)(『清水・前掲書』)による。

一〇三 「威勢のよい若竹も、水辺に繁茂する芦の間に二・三本だけではどうしょうもなさそうだ」。愛娘くのの絶望的な離縁問題を暗示する(『清水・前掲書』)。次の「劉原甫(りゅうげんぽ))の漢詩。「春草」に対応する詩題。「春草綿々トシテ名ヅケ可カ不 水辺ノ原上乱レテ栄(はな)ヲ抽(ぬき)ンズ 車馬繁華ノ地ヲ嫌ウニ似テ 纔(わづか)ニ城門ニ入レバ 便(すなは)チ生ゼ不」。

一〇四 前書き「蟻垤(ぎてつ)」=蟻塚。蟻と牡丹との取合わせの幻想的な句。漢詩が前提にある。

一〇五 「五月雨が降り続いて田毎に水は満ちたが、月は厚い雨雲に閉ざされ、どの田も闇夜のように暗くなってしまった」。暗澹たる心情の表出(『清水・前掲書』)。この後に、後書きの、「右の句は去年の夏云ひすてたる句也。百地月居が日記にも書もらし     たるべし。あへてよき句といふにはあらねど、いさゝかおもふしさいあれば、かいつけ侍るなり」が続く。文中の「百地」は寺村百池、月居は江森月居のこと

一〇六 「増水した他の池の浮草が今にも沈みはしないかと思われるほど、一きわ強く降る五月雨の雨脚」。

一○七 「近道を選んだら途中で水没していて、用心しながらゆっくりと草の根を踏み渡ってゆく」。

一〇八 「鳥羽田の農道をゆく蓑笠の人影は百姓の水見廻りであろう。洪水にならねばよいが」。

一○九 蕪村の暗い心の翳りを暗示しているか。

一一〇 「滄海(あをうみ)を衝(ツク)濁水」。「家庭的事件の衝撃の強さを寓した。この漢詩的表現が成功している」(『清水・前掲書』)。

一一一 「前句と一連の句。このほうが実感が深く一層痛切だ」(『清水・前掲書』)。

一一二 「一〇六と類想。『玉の緒(お)』の命のはかなさを暗示するか」(『清水・前掲書』)。

一一三 「作者の苦く暗い情念の表出である」(『清水・前掲書』)。

一一四 「一一二の別案。同じ主題を繰返さざるを得ぬ作者の心境が痛ましい」(『清水・前掲書』)。

一一五 「娘の離婚の原因が婚家の金もうけ主義にあったとは、弟子に対する父親の弁明に過ぎぬ。能や芝居の、身の毛もよだつ怨念の世界に通ずる情念が、圧(おさ)えきれぬ怨霊の顕示として作者の想像力を刺激したか」(『清水・前掲書』)。

一一六 「以下、家庭的苦悩かにの気分転換である。小田原ゆ箱根権現は『曽我物語』の舞台である」(『清水・前掲書』)。

※ここで、『清水・前掲書』の安永六年(一七七七)四月八日の「年譜記載」のものを記しておきたい。

四月八日 亡母追善のため、一夏千句を期して『新花つみ』の夏行を発企、四月二十日頃、中絶、理由は娘くのの離縁問題(皐廿四日付まさな・春作宛書簡)による。五月二日、百句ほどの末進を嘆ずる(皐月二日付書簡)。五月十七日以前に第一次(二十五句)第二次(七句)の追加の句を作る。後(年内か)、余白に修業時代の回想記を記す。

 蕪村には「くの」というひとり娘がいた。『新花つみ』の前年の安永五年には、娘が両腕の痛みを訴えたので、京都でも名高い医師の鈴木多門に見せたりしていた。そして、その年の十二月に、三井家の料理人の柿屋伝兵衛方に嫁がせている。当時、蕪村は六十一歳、そして、娘は十三・四歳の幼さであったと思われる。そしてそれから五ヶ月ほどで、蕪村は娘を婚家から取り戻している。正名・春作宛ての書簡によれば、先方の父親が金もうけのことばかり考えていて、蕪村の気が染まなかったことと、娘が先方の家風に合わず病気になってしまったことが原因らしい。ここらへんの当時の蕪村の苦悩が、掲出の一〇五から一一五までの「五月雨」の句として、その背景にあるというのである(『清水・前掲書』)。また、これらの作句と上記の年譜とを照合してみると、年譜の「五月十七日以前に第一次(二十五句)」というのが、『新花つみ』所収の一〇五から一三〇までの句で、「第二次(七句)」というのが、一三一から一三七の句ということになる。すなわち、これらの一〇六の句の後書きと一三一の前書きのところに掲載されている「廿日・廿一日・廿二日・廿三日」には第一次中断によるところの五月に入っての追加の句で、「廿四日」のものは第二次中断によるところの、これまた五月に入ってからの追加の句で、これらの「廿日から廿四日」の日付は、実際に、これらの句を作句した日付ではなく、蕪村が架空で記した日付ということになる。いずれにしろ、この「廿日から廿四日」の、後に追加した三十二句については、蕪村の当時の心象風景と合致するものが多いということは、ここで特記しておく必要があろう。

# by yahantei | 2007-08-24 16:09 | 其角と蕪村
(その八)

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十七日
   
九二 一八やしやがちゝに似てしやがの花
   
九三 かはほりのかくれ住けり破れ傘
 
九四 篝(かがり)たく矢数の空をほとゝぎす
   
九五 家ふりて幟(のぼり)見せたる翠微哉

    歌
九六 ぬなはとる小舟にうたはなかり鳧
   
九七 酒を煮る家の女房ちよとほれた

十八日
    
    魚赤たのふだる人の七回忌
    追福のために、しれるどちの
    発句を乞て(集めて)手向ぐさと(を)なすも
    則(亦是)讃仏場の因なるべし
九八 梢より放つ後光やしゆろの花
   
九九 青梅や微雨の中行(ゆく)飯(いひ)煙

    米侯一周忌
一〇〇 ゆかしさよしきみ花さく雨の中

一〇一 芍薬に帋魚(しみ)うち払ふ窓の前
     右題学寮

一〇二 青むめやさてこそしりぬ豊後橋

(句意など)(『清水・前掲書』)による。

九二 「一八」は夏の季語で、アヤメ科の多年草。句意は「大きく白い一八の花は父で、その父に似た子のように、著我の花はやや小ぶりである」。謡曲「歌占」によっている。
九三 「かはほり」は蝙蝠。
九四 九二と同じく、謡曲「歌占」の時鳥の句。
九五 六一と同想の句。「翆微」は山の中腹、青い山。これも回想の句か。
九六 「ぬなはとる」は「薄葉取る」(夏の季語)。「うた(うた)」は当時漢詩擅に流行していた「採蓮曲」。
九七 「酒を煮る」は酒煮の祝いの振る舞い酒。その接待役の亭主の女房に一寸惚れたの意。召波の「覆面の内儀しのばし麦のあき」・「麦秋や婿殿ことしはじめじやの」の本句取りの句か。
九八 「魚赤」は几董門の俳人。「たのふ(う)だる」は頼んだ人。「しれどる」は知友たち。「讃仏乗の因」は狂言綺語の俳諧も仏法讃嘆の因となるの意。白居易の「狂言綺語之誤」(和漢朗詠集)に因っている。
九九 「微雨」は小雨。
一〇〇 「米候」は太魯門の大坂の俳人。晩年「とら雄」と改号。安永五年五月二十一日没。
一〇一 「帋魚」は「紙魚」(しみ)で書物を食い荒らす害虫。「学寮」は寺院で僧侶が修学する所。 
一〇二 「豊後橋」は宇治川に架かる橋。観月橋の別称。

※ 九八の「梢より放つ後光やしゆろの花」や一〇〇の「ゆかしさよしきみ花さく雨の中」は、蕪村門の几董や太魯に通ずる俳人に係わるもので、ここにきて、長い前書きを付したものとか、これまでの句作りとは異質な雰囲気を有している。これらの前書きを見ていくと、この『新花摘』が起草された、安永六年(一七七七)の四月十七日、十八日の、蕪村の日常生活と不即不離の作句のように思えるのである。当時、蕪村門においては、「百句立」=「百題即案」(短時間で即吟の多作する試み)などが行われていて、このことについて、「何故、安永六年の春から秋にかけて、普通の弟子には無理と思われる百句立を夜半亭門下に強制したのか。几董を後継者として育成することを唯一の念願とした蕪村の、安永六年という時点における、専ら几董に焦点をあわせた教育法ではなかったか、とさえ思えてくる。考え過ぎの果ての模倣に陥り易い几董に、季題の本質を直感的に素早く把握する修練を課したのではなかろうか」(清水孝之稿「『新花つみ』の成立・・・その背景と成立」)という指摘もある。そして、蕪村の、この一夏千句を目指す夏行の「新花摘」の作句というのは、この夜半亭門の「百句立発句」の作句と、不即不離の関係にあるのかも知れない。いずれにしろ、この『新花摘』の日付の「八日・九日・十日・十一日・十二日・十三日・十四日・十五日・十六日・十七日・十八日」の十一日間で百二句と、その夏行が順調には推移していたのである。


# by yahantei | 2007-08-22 14:11 | 其角と蕪村
(その七)

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十五日
   
七四 辻堂に死せる人あり麦の秋
   
七五 三井寺や日は午にせまる若楓
   
七六 朝風の毛を吹見ゆる毛むしかな
  
七七 我水に隣家の桃の毛虫哉
   
七八 鮓(すし)つけてやがて去ニたる魚屋(ととや)かな
   
七九 鮒ずしや彦根の城に雲かゝる
      

八〇 鮓おしてしばし淋しきこゝろかな
   
八一 朝風に(風寒く)毛を吹れ居る毛むし哉

十六日
   
八二 鮓を圧す我レ酒醸(かも)す隣あり
   
八三 鮓をおす石上に詩を題すべく
   
八四 すし桶を洗へば浅き游魚かな

      精
八五 真しらげのよね一升や鮓のめし
   
八六 卓上の鮓に目寒し観魚亭

              眼
八七 若楓学匠書ミにめをさらす
   
八八 鮓の石に五更の鐘のひゞきかな
   
八九 寂寞と昼間を鮓のなれ加減
   
九〇 薬園に雨ふる五月五日かな
   
九一 巫女町によきゝぬすます卯月哉

(句意など)(『清水・前掲書』)による。

七四 路傍の土堂に行き倒れの死人を仮に安置してある。それと、麦の収穫期との対比(白日下の死と生との対比)。三〇と類想。
七五 七一と同じく湖畔の光景。漢詩的世界を超えた蕪村の傑作句。
七六 爽やかな夏の朝風が毛虫の毛の一本一本を吹きよがせているよ。
七七 「我が水」は手水鉢などの水か。そこに毛虫が落ちている光景。
七八 魚屋が黙々と鮓(すし)魚をつけこんでいる。
七九 「鮒ずし」は琵琶湖の名産。これもよく知られた蕪村の句。
八〇 七八は魚屋の光景。こちらは自分で鮓をつくっている光景。
八一 七六と同じ毛虫の句。
八二 「我レ」(貧しいもの)と「隣」(富めるもの)との対比。
八三 「題すべく」は「題しよう」の意。白楽天の「石上題詩」(『和漢朗詠集』)等によっている。文人趣味の句。
八四 すし桶を洗っていると小魚が寄ってくる。
八五 「しらげよね」は精白米のこと。「しらげ」は精。「よね」は米。
八六 「観魚亭」は服部南郭一派の詩人がよく詩会を催した水亭。
八七 読書に余念のない青年僧を暗示させる一句。若き日の蕪村の姿を彷彿させる。
八八 「五更」は夜間を一更から五更まで二時間ずつに句切る中国の時刻制度。寅の刻(今の午前四時前後の二時間)。日の出(卯の刻)前。
八九 寂寞は、清浄、無声の意。一夜鮓がうまくなれてきた状況。
九〇 端午の日(五月五日)を「薬日」と称し、この日薬草を採る。この日雨が降れば、「薬降る」といい、明年作物が大いに熟すという。
九一 「巫女町」は生霊・死霊の意中を述べる巫女達の住んでいる町。「きぬ」は衣。「すます」は「清ます」で洗い濯ぐこと。


※七十八から以下、鮓(すし)の句が続く。この七九の「鮒ずしや彦根の城に雲かゝる」は、自筆句帳にも収載されており、また、太魯あての書簡にも見える、この『新花摘』の句の中では、よく知られた句の一つである。この『新花摘』中の鮓(すし)の句の中で、八二の「鮓を圧す我レ酒醸(かも)す隣あり」、八三の「鮓をおす石上に詩を題すべく」、
八六の「卓上の鮓に目寒し観魚亭」、八八の「鮓の石に五更の鐘のひゞきかな」、そして、
八九の「寂寞と昼間を鮓のなれ加減」と、つくづくと、蕪村というのは、漢詩に造詣の深い、漢詩人・蕪村という思いを深くするのである。そして、これら漢詩を背景としてしている句の中にあって、特に、八六の句の「観魚亭」の漢詩人・服部南郭と蕪村との関係というのは、蕪村の生涯にわたってのものと理解すべきものなのであろう。ここで、かって、「若き日の蕪村」で触れた、服部南郭について、ここで再記しておこう。

(再記)

http://yahantei.exblog.jp/i17

蕪村が江戸に出てきた当時、服部南郭に師事したと思える書簡(几董宛て書簡)などに係わる対談記事について先に触れた。そして、この服部南郭は、京都の人で、元禄九年に江戸に出て、一時、柳沢吉保に仕え、後に、荻生徂徠門に入り、漢詩文のみならず絵画(画号は周雪など)にも造詣が深かったということなのである。蕪村の誕生した享保元年というのは、享保の改革で知られている徳川吉宗の時代で、この吉宗時代になると、綱吉時代に権勢を振るった柳沢吉保らは失脚することとなる。そして、その吉保の跡を継ぐ柳沢吉里は、綱吉の隠し子ともいわれている藩主で、その吉宗の幕藩体制の改革とこの柳沢由里と深い関係にある柳沢淇園の「不行跡」との関連、さらには、これまた、その吉宗によって失脚される新井白石とは同門(木下順庵門)である祇園南海の「不行跡」との関連など、何か因縁がありそうでそういう一連の当時の大きな幕藩体制の改革などもその背景にあるようにも思えてくるのである。そして、蕪村が師事したという、服部南郭もまた、淇園・南海と同じく、柳沢吉保並びに荻生徂徠門というのは、これまた何か因縁がありそうで、当時の蕪村の生い立ちや関心事のその背後の大きな要因の一つのように思えてくるのである。なお、服部南郭については、下記のアドレスで、次のように紹介されている。

http://www.tabiken.com/history/doc/O/O302L100.HTM

服部南郭

一六八三~一七五九(天和三~宝暦九)江戸時代中期の儒学者・詩人。詩文に長じ,学識豊かで世に容れられること大であった。通称小右衛門,名は元喬,字は子遷,南郭は号。京都の人。一六九〇年(元禄九)十四歳で江戸に出てきて十六歳で柳沢吉保に仕えた。壮年にして荻生徂徠の『古文辞説』に共鳴して門下となる。資性温稚で詩文の才能が世に知られ,北村季吟の門下であった父の感化もあって和歌も詠み絵画にも関心をもっていた。三十四歳のころ,家塾を開き門人を教授し古文辞の学を世に広めた。徂徠の門弟として,経学の太宰春台に対し詩文の南郭と並び称された。収入は年々百五十両あったと言われる。著書のうち四編四十巻にのぼる『南郭先生文集』は本領を発揮した詩文集。「大東世語」「遺契」にはその学識の広さが見られ,「唐詩選国字解書」「灯下書」「文筌小言」は詩文論として評判を高めた。南郭は政治・経済を弁ずることがない点に特徴があるとされている。


# by yahantei | 2007-07-29 09:00 | 其角と蕪村
六 さみだれや大河を前に家二軒
  Samidare ya tai-ga wo mqe ni ie niken

By a great stream
In the May rain,
Two houses.
# by yahantei | 2007-06-11 09:25 | プライスの『俳句』


五 病人の駕の蝿追ふ暑さかな
  Byônin no kago no hae ou atsusa kana

Keeping away the flies
From the sick girl in the palanquin,---
How hot it is!  
# by yahantei | 2007-06-10 06:04 | プライスの『俳句』


四 みじか夜や芦間流るる蟹の泡
  MIjikayo ya ashima nagaruru kani no awa

The short night;
Between the reeds flows
The froth of crabs. 
# by yahantei | 2007-06-08 06:52 | プライスの『俳句』
三 短夜の闇より出でて大井川
  Mijikayo no yami yori idete ôigawa

From out of the darkness
Of the short night
Come the River Ôi.
# by yahantei | 2007-06-05 01:28 | プライスの『俳句』
(その六)

http://ship.nime.ac.jp/~saga/shinhana/leaf4f.html
http://ship.nime.ac.jp/~saga/shinhana/leaf4b.html

十三日
   
五五 やゝ廿日月も更行(ふけゆく)ぼたむかな
   
五六 山蟻のあからさまなり白(はく)牡丹

五七 方百里雨雲よせぬぼたむ哉
   
五八 詠物の詩を口ずさむ牡丹哉

五九 山蟻の覆道(ふくだう)造る牡丹哉

六〇 草の戸によき蚊帳(かや)たるゝ法師かな

六一 木がくれて名誉の家の幟(のぼり)哉
   
六二 柚(桐)(ゆ)の花や能(よき)酒蔵(ざう)す塀の内

六三 浅河の西(にし)し東(ひが)シす若葉哉

十四日
   
六四 夏山や京尽し飛(とぶ)鷺ひとつ
   
六五 売卜(ばいぼく)先生木(こ)の下闇の訪(とは)れ貎(がほ)
   
六六 柿の花きのふ散(ちり)しは黄バみ見ゆ
   
六七 口なしの花さく(ちる)かたや日にうとき
   
六八 ごつごつと僧都の咳やかんこ鳥
  
六九 堀喰ラふ我たかうなの細きかな
   
七〇 笋(たかうな)を五本くれたる翁かな
   
七一 麻を刈レと夕日このごろ斜なる
   
七二 藻の花や小舟(をぶね)よせたる門(かど)の前
   
七三 閑古鳥歟(か)いさゝか白き鳥飛(とび)ぬ

(句意など)(『清水・前掲書』)による。

五五 月の満ち欠けと牡丹の開落とを重ねた句。
五六 山蟻の黒と白牡丹の白との絵画的な句。「あからさまなり」は蕪村の心象。
五七 其角の「五月雨の雲も休むか法(のり)の声」の換骨か。「白髪三千丈」風の誇張的表現、「上空百里四方」の雨雲を寄せ付けないとは、大胆・豪放な漢詩的発想の句。蕪村の傑作句。
五八 詠物詩=禽獣・花木など諸物の形と心を写生する漢詩の一格。伊藤栄吉選『日本詠物詩』は安永六年に刊行された。
五九 覆道=「複道」の誤り。屋根のある廊下。「阿房宮賦」(『古文真宝』)など。
六〇 よき蚊帳=優雅な上等の紗(しゃ)の蚊帳。
六一 名誉の家=先祖が武勲を立てた名門。
六二 鬼貫の「のり懸(かけ)や橘にほふ塀の内」の換骨か。
六三 東西南北の語は漢詩に頻出する。
六四 京尽し飛ぶ=京中を隈無く飛ぶの意ではなく、京の涯(はて)から涯へと飛ぶの意。
六五 売卜先生=卜筮を業として報酬を受けること。手島堵庵の心学書『売卜先生糠俵」は安永六年に刊行された。訪(とは)れ貎=客を待っている顔。
六六 昨日の柿の白い花が、今日は黄ばんでいる。
六七 「口なし」は梔子(くちなし)と無言の意の掛けで、「日にうとき」に照応させている。「日にうとき」は日当たりが悪い。
六八 「ごつごつ」は洒脱な擬音語。郭公は「オワオワ オンオン ゴワゴワ」と鳴く。
六九 「掘喰ラふ」を掘って喰うの意か。
七〇 五本という数量は沢山の意か。
七一 「斜めなる」は、漢詩に頻出する「斜日」のこと。
七二 写生風の農村小景。
七三 乙由の「かんこ鳥我も淋しい歟飛んで行(ゆく)」の換骨か。

※牡丹の句が、五十一から五十九まで続く。『高橋・前掲書』では、これらを牡丹を主題とする一連の連作句としてとらえているが、『清水・前掲書』(「国文学 解釈と鑑賞」所収「『新花つみ』詩論」など)では、「新形式の群作」との群作句という理解をしている。両者の相違は、それらの一連のものの主題の濃厚による差違なのであろうが、これらのことに関して、『高橋・前掲書』では、これらの一連の牡丹の句について、「この九句のうち八句が白牡丹を詠った句と思われるが、どうしたことか最後の五九の一句だけが紅牡丹を詠んでいる」としているが、それほど白牡丹と紅牡丹とを明瞭に区別して作句しているとも思われない。さらに、一九・四一にも牡丹の句があり、とにもかくにも、蕪村にとって、牡丹は恰好な主題であったことは間違いがない。それも、十九の「日光の土にも彫れる牡丹」(日光東照宮の欄間の牡丹に対比して)、四一の「絵仏師の琢磨が描く牡丹」、五二の「花鳥画家・南蘋の牡丹」など、まさに、画・俳二道を極めた蕪村ならではという思いを深くする。「蕪村が牡丹か牡丹が蕪村かと唱えられ、彼の牡丹の句は完全に先例後蹤を絶っている」(中村草田男著『蕪村集』)というのも、これらの牡丹の句に接してだけでも、その一端を窺い知ることができる。そして、こういうものは、亡母追善のものというよりは、俳諧修行の夏行という趣でなくもない。

# by yahantei | 2007-06-04 09:47 | 其角と蕪村
二 みじか夜や毛むしの上に露の玉
  Mijikayo ya kemushi no u ni tsuyu no tama

The short night;
Upon the hairy catapillar,
Beads of dew.
# by yahantei | 2007-06-04 01:25 | プライスの『俳句』
一 涼しさや鐘を離るる鐘の声
  Suzushisa ya kane wo hanaruru kane no koe

The voice of the bell,
As it leaves the bell,---
The coolness !
# by yahantei | 2007-06-03 05:28 | プライスの『俳句』
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